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つかさどる・もっと働け・自己搾取
「教員の負担軽減のためにもっと働け」
「学校における働き方改革」を機に公然と語られるようになった「教員の負担軽減のために事務職員はもっと働け」。
その後の、政府や自治体の無策と失策による教員不足もこれに拍車をかけている。
「事務職員は暇だろう」という偏見と分断を基礎とした、ど真ん中職種差別・職種蔑視なわけだが。
これを事務職員の立場から積極的に受け入れ布教する面々と、同時期の学校教育法「事務職員は事務をつかさどる」改正を喜んでいる面々とが重なるのは、たいへん示唆的だ。
主体的・積極的な奴隷化
「つかさどる」改正はそれにより「事務職員が主体的・積極的に学校運営に参画する」ことになる、と説明されている。
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https://kokkai.ndl.go.jp/txt/119315104X00520170323/70
それと「教員の負担軽減のために」が軌を一にしている姿を見るに、「つかさどる」とは結局「事務職員は主体的・積極的に教員の負担軽減のために事務を引き受ける」という意味なのだろう。
命令されたわけでもなく「主体的・積極的に」、教員に滅私奉公する事務職員。
「つかさどる」はそのたかだか5文字で、一部のおっちょこちょいな事務職員に薄っぺらい存在価値と自己有用感を植え付け、事務職員の奴隷化へと駆り立てている。
悲惨だ。
肯定性の過剰と自己搾取
哲学者ビョンチョル・ハンは著者「疲労社会」において、21世紀の社会は「規律社会」ではなく「能力社会」であり、人々は従順な主体ではなく能力の主体、自身を経営する経営者であるとした。
そして、社会における物の見方は「すべき」から「できる」に切り替わったとする。
(ただし、「できる」は「すべき」を打ち消すのではなく、「すべき」の段階=規律化を修了したのちにある連続的なものである)
能力社会の住人は、「できる」というパラダイムのもと「過剰な活動」「肯定性の過剰」を自己の内に抱える。
そうして、終わりなき「自己搾取」が、自由と強制が重なり合う形で展開される。
それはときに、内在のテロルとして精神疾患を引き起こす暴力と化す。その最たるは燃え尽き症(バーンアウト)である。
能力を発揮し成果を生み出すことへの脅迫観念によって、この主体はいつも、さらに成果を生み出すよう強いられている。だから、この主体は決して報償という休息地点にたどりつけない。この主体は延々と、欠乏と負い目の感情のなかを生き続ける。けっきょくのところ、ナルシシズムの主体は自分が倒れるまで自分自身と競い合い、自分自身を追い越そうとする。そして虚脱感に苛まれることになる。この虚脱感が「燃え尽き症」と呼ばれる。能力の主体は、いわば自己の死に向かって自己を実現する。ここでは、自己実現が自己破壊と表裏一体の関係にある。
「つかさどる」「主体的・積極的」とも、大いに重なるところではないだろうか。
主体・積極と権限・責任
ところで、「事務職員は主体的・積極的に教員の負担軽減のために事務を引き受ける」ことと、学校教育法施行規則43条に基づく校長の「調和の取れた」校務分掌権限との衝突はいかに整理されるだろうか?
後者は権限であると同時に責任であり、不調和な分掌から生じた過労に起因する疾患や死には、校長が責任を問われる。
遊びや生き様として「主体的・積極的」であることは大切なことかもしれない。
しかし、仕事(賃労働)は遊びでも生き様でもない。
いろいろな立場からの権限と責任が絡み合う。
それを顧みないのは、あまりにナイーブが過ぎる。
「やりたい」「やれます」「やります」
そういう話じゃない。
「主体的・積極的に」
言う方も言う方、受ける方も受ける方。
なぜ「つかさどる」だったのか
そもそも改正法文はなぜ、「事務職員は、主体的・積極的に事務に従事する」ではいけなかったのか。
「つかさどる」の意味が「主体的・積極的」だとすればそれでも良かった。
結局、「教諭は、児童の教育をつかさどる」の後追い、真似っこ。
「『つかさどる』に対して『従事する』じゃ一段下っぽくてみっともない」程度の理由なのではないか。