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Keto(ケトン体)ダイエットに便乗したら、体重が減ってきた

アメリカ人の夫が糖質制限の食事療法を始めて、もうすぐ半年になる。最初の3ヶ月で20キロほどすぐに落ち、本人も驚いていた。そこから横這い状態が続いており、本人はもう少し落としたいようだが、それでも特に焦ることもなく、新しい食生活を楽しんでいる。始める前、私は参加しないと断言したのだが、今では半分以上乗っかってしまい、気づくと体重も減ってきている。私の場合、コロナ前に戻っただけだが、それでも好きなもの、おいしいものを食べながら無理なく体重が減っているので、非常にありがたい。ちなみに、二人とも日本人の標準体型になるのはとても無理、いや、極めて長い道のりであることは前もって言っておく。 

夫が参加しているのは、健康保険会社のパートナー会社が主催する糖尿病の寛解を目的とするプログラムで、Keto Diet(英語ではキートーと発音)が元になっている。米やパン、麺、豆類を取らず、高タンパク、高脂肪の食事をすることで身体をキトーシス状態に保ち、身体の燃料を炭水化物から脂肪に変える、というものである。体重、血糖値、キートーン(ケトン)値を毎日測定すると、その数値が自動的にアプリに記録される。専門家のサポートチームがそのデータをチェックし、メールで質問やお悩みに答えてくれる。数値がよくないときは、確認の連絡もくる。

この食事療法を始めたいと夫が私に告白してきたとき、私は冷淡にも「体重が減って健康になるのは素晴らしいことだけど、私は一緒にはできないよ」と即答した。落胆する夫に「日本人に炭水化物を断てって言うのは、ごはん食べるなって言ってるのと同じ意味なんだよ」と憤る私。一緒にやろうとは一言も言われていなかったのに、だ。その後、夫は「アジア人の妻には炭水化物は辞められない。家族の協力が得られない」とサポートチームに相談したらしい。何と言われたのかは教えてくれなかったが、誘惑に負けず一人でもやり抜く決意を固める、いいアドバイスがもらえたのだろう。

それから3ヶ月ほどの心と身体の準備期間を経て、プログラムを始めた。後で考えると、この準備期間、今まで食べていた、これからはもう食べることのない食事に別れを告げていたのだ。食事は分けることにした。それぞれが調理して、食べるときは一緒に食べることになった。夫が食べられないものを私が目の前で食べても構わないし、そのことで罪悪感を感じるのはやめてくれ、と何度も言われた。そこまで言われて食べられるかよ、と思ったけど、案外食べられた。私は冷淡なのだ。むしろ、自分の好きなものが引き続き食べられることに感謝した。さすがに、夫も好きなラーメンを目の前で食べるのは気が引けたので、鬼の居ぬ間に洗濯、ならぬ、夫の居ぬ間にラーメン。

インターネットやYouTubeでいろんなKeto のレシピを調べ、夫は料理に明け暮れるようになった。もともと作るのも食べるのも大好きな人だけど、食べられないものが増えたため、一から作るしかないのだ。パンやピザまで作ってしまっていた。寝ても覚めてもKeto の話で「あの、たまには食べもの以外の話もしませんか?」と言いたくなるくらい。それでも、話を聞く(フリ)だけでも夫のサポートができれば、と努めて聞いた。

そのうち、あれが食べたい、これが食べたい、とストレスがたまり、イライラをぶつけてくるのではないか、と身構えていたが、それはなかった。むしろ、あの料理をこれを使って作ろう、と考えるのが楽しいようだった。食べられない、と言うよりも、あれもできた、これも作れる!と新しい発見と創作にワクワクし、レシピのレパートリーもアイデアも広がっていった。そして何より、一から作る料理はおいしかった。

最初はキッチンでドンガラガッシャンやっている夫を遠目に見守っていたが、楽しみながら続けていく夫に感心した。体重も確実に落ちていくので驚いた。オイルの消費量に愕然としたが、努めて黙っていた。「これ、おいしいから食べてみて」と試食を勧められ、意外にもおいしいので食べるようになった。胃がもたれるものもあった。デザートも作っている。一度お互い私のアーモンドアレルギーを忘れていて、誤って食べ、呼吸困難騒動もあった。

Hangry という造語がある。空腹のhungry + 怒っている angry というわけだ。昔はよくhangry になっていたが、今は二人ともならなくなった。米や麺は、食べると数時間後に急激で暴力的にお腹が空いてきたけれど、脂が燃料だと、徐々にお腹が空いてくる。その度合いはとてもお手やわらかで、心地いいのだ。「そう言えば、お腹すいてきたかも。一時間後にごはんでいいかな」といった具合に。 

気がついたら、炭水化物を食べる頻度が減っていた。夫の居ぬ間にラーメンを食べていたけれど、ラーメンのスープだけ買ってきて、麺はズッキーニを細くスライスしたものを、夫と一緒に食べるようになった。歯ごたえがシャキシャキして、時間が経っても伸びないし、肉みそやもやしも炒めて入れるとさらに食べごたえがあっていいのだ。それもこれも、コロナで外食ができないからできることなのかもしれない。普通に外食できていたら、誘惑に負けていた自信がある。この状況にも感謝。

それでも、たまに米や麺類は食べている。食べるときはおいしく食べている。「毒を喰らわば皿まで」とちょっと意味の違うことわざをつぶやきながら。しかし回数は減った。二人とも体重は変わらないが、おいしく楽しく食べていて、食事制限をしているという感じはまるでない。制限と言うよりは、むしろ自分たちで食べるものを選択している、という感じだ。そして、昔あった「今、無性にあれが食べたい!」というcraving がなくなったことにも気づいた。つきあっていた頃、「今日はベトナムのPho が食べたいね」と同じことを言うので「この人は運命の人だ!」と思ったものだ。何のことはない、同じものを食べるようになって、化学調味料の禁断症状のサイクルが同じになっただけのことだったのだ。  

日本人にとって、食事とはごはんとおかず、しかもおかずは数品が必須だと思っていた。それは文化や習慣の話であって、食べないと生きていけないのとはまた別の話だった。食糧不足の時代を生きた抜いた先人たちが、お米が食べられるのはありがたいこと、お米が食べられて健康で幸せ、が、食べないと身体に悪い、お米を食べなければ生きていけない、と解釈してしまったのだろうか。昔はお米が文字通りの主食だったこともある。でも今の世の中、実はお米を食べなくても健康に生きていけるんだ、そういう選択もあるんだ、と自分の体験をもって、やっと気づいた、というか信じることができた。

それでも私はまだ米やパン、麺類を断てていないし、正直、この先も断たないと思う。やっぱり食べたいものを適度にいろいろ、感謝しながらいただきたい。何事もバランスが大事なのではないかと思っている。

この中途半端なKeto もどきダイエットが果たして身体にいいのか、このやり方が万人に合うのかはわからないので、安易に人に勧めるつもりはない。ただ、日々当たり前に食べているもの、自分の選択について、あるいは自分の食べるものと身体の関係性について、一度考えてみることは、みなさんにお勧めしたい。体重が落ちてきていることもうれしいが、それよりも加工食品の摂取が減ったためか、嗅覚や味覚が敏感になってきていること、心が安定してきていることに感謝しているからだ。

今日は1年以上ぶりにバナナを食べて、バナナってこんなに甘くておいしかったのか!と感動した。普段は食べないバナナが、なぜか無性に食べたくなったのだ。あれ、これもcraving ?ま、いっか。自分に無理せず、心地よく楽しく食べて生きるのが健康、幸せにつながるのではないか、と思っている。

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