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Merzbow


京都国際舞台芸術祭。

最近ダンスの良さにようやく気が付き始めたので、それに伴い舞台も観てみたいと思ったのが今回京都へ行った理由だ。
しかし、のろのろとチケットを取らずにいたら行こうと思っていた舞台の前売りチケットが売り切れてしまったので、京都へ行く理由を強めるため、そのあとのビジュアルコンサートなるもののチケットを取った。とはいえ、写真家と音楽家数名によるパフォーマンスということだったので、写真の好きな僕としては気になっていた。

さて、会場に着いてみると左からDJ、ドラム、ギターの順に並び、後ろのスクリーンに映像が映し出されるという形式でのパフォーマンスだった。
ビジュアルコンサートと銘打った舞台だったので、その説明の通り、映像と音楽を組み合わせたものであると認識していたが、そんな生易しいものではなかった。

まず配布されるパンフレットに佐々木敦の寄稿が載っている。
この舞台は志賀理江子がメインだと思っていたが、その内容はメルツバウについて。

 われわれが 「音楽」 と呼んでいる営み/試みには、その根本問題、つまり「音楽とは何か?」 という問いをその前提以前からあらためて問い直そうとする者たちが、歴史上、 何人か存在していた。 問いの方向や解法のあり方はそれぞれであるが、 たとえばエリック・サティ、たとえばジョン・ケージ、 たとえばブライアン・イーノ、けっして大袈裟に言うのではなく、むしろごく控えめに言って、メルツバウは、これら先行者に連なる、音楽という概念を揺るがし、拡張し、再定義を促し、音楽を内側から変質させてしまうほどの、 決定的に重要な存在である。
 そしてメルツバウの場合、その革新性は、ノイズ・ミュージックという矛盾に満ちたジャンル (名)と深くかかわっている。(中略) 
 そもそも「ノイズ」とは雑音すなわち「非音楽」ということなのだから、「ノイズ・ミュージック」はあからさまに語義矛盾であり、矛盾それ自体が存在意義であり魅力であり可能性でもあった。のちに「ジャパノイズ」などと呼ばれもする日本のノイズ・ミュージシャンのトップランナーとして、 メルツバウはインキャパシタンツや非常階段などとともに、いわゆるハーシュ・ ノイズ、途方もない大音量=轟音のノイズを追究してゆくことになる。
 それはエレクトリックな、 エレクトロニックなノイズであり、耳をつんざく、 鼓膜を破るほどの純度の高い爆音でありつつ、聴覚が慣れてくるにつれてそこには複雑にして豊かな音流のレイヤーが幾層にも織り重なっていることがわかる。 それは「こんなの音楽じゃない」 から 「これこそ一度も聴いたことのない美しい音楽だ」 の両極の反応をもたらす。 そう、メルツバウの楽曲は 「これは音楽なのか?」いや「あなたはこれを音楽として聴けるか?」という絶えざる問いかけとしてリスナー/オーディエンスに迫ってくるのだ。
「唯一無二の音楽家」 佐々木敦

なるほど、会場入り口で耳栓が配布されたのはそう言う理由か。
耳栓をつけるコンサートなど聞いたことないのでよくわかっていなかったが、どうしても耐えられない人はつけてくださいということであった。

ノイズ・ミュージックというジャンルは正直あまり知らなかった。詰まるところ、ミニマルミュージックやアンビエント以降の現代音楽の潮流の1つといったところだろうか。
志賀理江子さんも恥ずかしながら存じ上げなかったが、ノイズミュージックなるものとどのように組み合わさり展開されていくのか楽しみだった。

会場にはどデカいスピーカーが複数配置され、佐々木敦の言う音楽を予期させる。
スクリーンには浜辺に赤い波が押し寄せる映像が逆再生(たぶん)で延々と流れている。

暗転し、空気が静まる。
ギターが音を鳴らす。
1回、2回、確かに音は大きいがこのくらいだったら…
と、3回目の音がなった瞬間空気が割れた。体内を劈くような衝撃に会場の人々が飛び跳ねる。
そのまま呆然としていると、それが始まった。

爆音であるとしか表現ができない。
しかし、ただ音が大きいだけなのではない。音が大きいだけの体験であれば、小さいライブハウスでのライブなどで十分味わえる。
それとは違い、音が歪みすぎてノイズである。爆音で身体に響くが、一般的なライブのようにノれるわけではなく、ただ一方的に砲撃を浴びせられるだけだ。
空間はその音で完全に塗り替えられてしまい、咳の音も聞こえない。
視覚だけは1人の男がコンクリートの一本道を歩いている単調な動画によって確保されていたが、聴覚、触覚が全て埋め尽くされ、その他の感覚は呆気なく呑み込まれた。
心臓の鼓動さえも上書きされ、身体の感覚すら失われる。
まるで身体すらもそのノイズに侵食され、一体化させられそうになっているかのようだ。

自分の現在位置が把握できなくなる。
それはミニマルミュージックとはまた別のものである。
ミニマルミュージックはその執拗な反復によっていまどの段階にあるのかがわからなくなるが、この音楽はそれとはまた違う。
ひたすらに大きいノイズによってかき消されてしまっている音色、リズムを把握できないため、ひたすらに音を浴び続けることしかできない。
映像は男が歩く映像を中心に据えて、時折別のカットやシーンが加えられたりして徐々に変化していくので、ミニマルミュージックのような反復的な要素を感じる。しかし、如何せんノイズミュージックによって拍子も音色も掴めない(そもそもあるのかないのかすらわからない)ので、映像がどのように構成され、音楽とリンクしているのかもわからない。
映像は意図のわからない、けれど不安を煽るようなものが変わるがわる流れ、即興的に作られる音と呼応していく。
彼らがどのような経緯でコラボレーションすることになったのかはわからないが、こんなに強い音楽に喰われない映像を作れるのにも感銘した。

もともとは映像のほうに特に興味があったが、メルツバウの衝撃によって意識の大半が持っていかれたため、正直言語化できるほど記憶にない(前夜眠れず徹夜だったため爆音に慣れてきた頃何度か居眠りしてしまったせいでもある)。

最近はあいち2022を皮切りにアート、ダンス、音楽など幅広く堪能しているおかげで今まで知らなかった世界や表現に何度も衝撃を受けている。
いくつ年をとっても知らないことや新しい表現は無限に湧いてくる。
まだまだ味わえるうちに片っ端から味わいたい。

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