表現におけるwhatとhow
たまには自分語りでもしてみようかと思います。
僕はずっと建築を考えるうえで、whatばかり考えていたように思います。建築を設計するにあたってどのようなものをつくりたいか、どのようなものがつくれるのか、何が新しく、他と差をつけることができるのか、なぜこれを建築で表現する必要があるのか。
そんなことばかり考え、コンセプトを練るのに時間を割き、それをカタチに落とし込む時間を多く取れず、結果大したことのないものが出来上がります。
実際、建築学生(その他の分野でもそうだと思いますが)はとにかく頭を働かせる人ととにかく手を動かす人に大きく二分できます。僕は典型的な前者でした。
ルイス・カーンもwhatはhowに先行するといったことを言っているし、と自分を肯定して疑いませんでした。
ただ、コンセプトは本当に大事なのでしょうか。
当然作品にまるで指標がなければ、余程目の肥えている人でなければ何を見たらいいのか、どう評価すればいいのかわからないでしょう。プレゼンが重要視されることからわかる通り、何を表現したかったのか、それをどう解いたのか、それはどんな価値を持っているのかといった、作品の持つ意味は価値を決めるうえで重要な要素となります。
しかし、現代においてwhatは本当に重要視されているのでしょうか。
僕はよく美術館やギャラリーに行くと、特にギャラリーで在廊しているアーティストの方とお話をしたり、あるいはSNSで気になるアーティストのステートメントを読んだりして思うのですが、表現したいもの、whatの部分に目新しさがあることは滅多にありません。認識論のどこかをつまみあげたような、正直どこかで聞いたことのあるようなことが同じく現代のアーティストの関心や執着の中心なのだと感じます。
現代アートでは特に新しさが重要視され、そこに価値があります。しかし、現代の作品を観ていると、何が表現されているのかよりもどう表現されているのかによる差別化が顕著であるように思われます。
アートも建築も哲学ではありません。言葉で語れるものは言葉で語ればいい。重要なのは「それ」でしか語れないものを「それ」で語ることです。
いくら理論を捏ねて下地を懸命に丁寧に作り上げても、現れるかたちが理論をそのままに体現したものであるのならば、そのかたちをとっている意味はなく、言葉で語れてしまい、作品を読む必要性はなくなります。
whatは概念であり、howは形態であると言うことができると思います。
メディウム・スペシフィックな、自律的なものはhowによって表現されるのかもしれません。
僕は最近まで建築が好きではなくなっていました。好きな建築家もいるし好きな建築もあることにはあるけど、建築自体が好きかと言われるとイマイチピンときませんでした。それは恐らく、そういったhowの妙に気付いていなかったからでしょう。
インターン先でポートフォリオを見てもらったとき、君の作品は俯瞰的すぎるだとか、建築が好きじゃないだろうと言われました。その通りだと思いました。
理論から組み立て、それに沿うように神の視点から形態をつくっていく。建築がどう体験されるか、どう見えるか、体験する人にとってどのように現れ、どんな価値を持つのか。それを考え、スタディによって検討、発見していく。そういったものにあまり関心はなく、建築によって表現したいものがどう表現されるのかばかりを追求していました。
それは本当に建築の良さが現れているのでしょうか。ポピュリズム的な視点というより、建築の操作による良さ、快適さ、美しさのようなもののスタディができているとは思えません。オブジェクトとしては良いかもしれないけど建築としてはいかがなものかと。
現代は兎にも角にも何もかも速い。情報はあっという間に飛び込んでは通り過ぎて行き、また次の情報が飛び込んできてはまた通り過ぎて行きます。充分に咀嚼する時間はなく、意識的に時間をとって咀嚼しようとすれば他の情報に手を出す時間はなくなります。
情報の氾濫する時代においては表層だけが舐められ、深いところまではなかなか辿り着けません。それは速い消費に慣れてしまっている現代人の業のようなものなのでしょう。
僕はそんな「速い」現代社会を軽蔑するような目で見ていましたが、他ならぬ僕がそういった速さや浅さに呑まれていたのです。
whatを深いものだとし、それに新しさを求め、建築に現れる価値に気付かずに設計をしていました。
今でもそういったwhatのような、シニフィエのような、イデアのようなものに対する憧れがあります。
しかし、建築の面白さというのはそういったものではない、表層の部分にも多分に存在しています。
当たり前のことですが、よく観察すること。それがとても大事なのだと最近改めて気付いたのでした。
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