くゆらば
紫煙が立っていた。これはいつの記憶だろう。
居酒屋にいた。私がいたのかどうかはわからない。少なくとも自分の身体はそこには感じない。兎にも角にもその眼は居酒屋にあった。
遠くで店員の声が鳴っている。内容は聞き取れず、音はべっとりとした空気に溶けていく。
酔っているのだろうか。焦点が合わない。斜め上の視線の先にある垂木がぼやけた視界のなかに揺れていた。白けた垂木を伝い天井を見上げると電球の光で真っ白になった。目を閉じると視界がマゼンダに染まる。
油の匂いが充満している。酒のせいで鼻が詰まっていてわからない筈なのに確かに感じる。
向かいに座る誰かが煙草を燻らせている。天を目指す煙はスローモーションだった。いつまでも消えることなく揺れる。ただ、揺れる。赤くなった手を首に当てると僅かに時間が巻き戻った。と思ったら元の時間に戻り、またゆっくりと煙が揺れる。
煙草の主は煙をゆっくりと吐きながら左上を見ている。表情は煙に巻かれ、遂に読み取ることができなかった。
祖母の家にいた。同じく身体の感覚はないが、状況から察するに自分の記憶だと思われる。
仄かに暗く、埃の被ったピアノの上には雑多に物が積まれている。挨拶をする両親を尻目に祖母は何かを喋り続けながらキッチンへと消えては何かを両手に抱えて戻ってくる。気付いたら消えたと思うとまた何かを持ってきて両親へと渡す。両親は何かを語りかけるが、耳の悪くなった祖母には聞こえず、またキッチンへと消えていく。
そのある種の儀式めいたやり取りから逃れるようにこっそり和室へと向かう。
祖母の家特有の匂いに線香の香りが混じっていた。左手にある窓から柔らかい光が差し込んでいる。隣の部屋で頻りに声が飛び交っているはずなのに、いつもこの部屋は静かだった。会ったことのない祖父の仏壇の前に座り、誰かに続いて線香をあげる。仏壇には面識はないが見慣れた顔があった。それを見ると、何故か懐かしい気持ちになる。また焦点が合わなくなる。
行ったことのないであろう、名前のない土地へ飛び、彼が現れる。何を語るでもなく、ただそこにいる。顔は視界に入らず、その特徴のない身体だけを映し続けている。このセピア色の世界には顔の隠れた彼と身体を持たないこの視点しかない。音も触覚もなく、ただ淡い光と独特の匂いに包まれた虚構の空間。そのなかで見ることのできない彼の目を見つめている。
祖母の家は虚実が入り混じっていた。
ある墓地にいた。その墓地は小高い山にあり、神社の脇から登ると左右に段々と広がっていた。中ほどにある墓石の前に座り、線香を焚き終わると墓地の一番上を目指した。疎らな人影とすれ違っては会釈をする。人影どうしがすれ違っても会釈をする。ふと脇道に入り、墓石に書かれた名前を目でなぞる。その黒色が妙に心地よく、何度も繰り返す。濡れている墓石は暗くなり、しかし艶やかで、暫し見惚れてしまう。黒い窪みも深みを増し、一層魅力を増した。やがてゲシュタルトが崩壊してしまうとその行為への享楽が薄れ、再び上を目指した。
階段と墓石がリズムを生み出しているが、無彩色がそれを和らげ、風景に秩序を与えていた。周囲は木々に囲まれており、その隙間には暗闇を湛えていた。
最上段へ辿り着き見降ろすと、御影石の谷には静寂が溜まっていた。
ここへ来るときはいつも雲がなかった。のっぺりとした空には顔がなく、それなのに落ちてくるような切迫した空気を感じた。しかし、その無神経な青は角の立った御影石とコンクリートの灰色とよく馴染んだ。
片手に持っていた線香に火をつける。供えるわけでもなく、ただ空に翳す。先端が赤く染まり、ゆっくりと灰になっていく。たちまちその香りに覆われてこの世界は再び揺らぐ。
朝なのか、夕方なのか、日が傾いている。白く立ち昇る煙は照らされ、紫色に染まった。
すぐ溶けていくはずの煙が途端、永遠を帯びた。
これは現在なのか過去なのか。
これは現実なのか虚構なのか。
これは自分なのか他人なのか。
そもそもこれは誰の記憶なのか、思考なのか。
顔のない紫煙のイメージは、不意に中空に燻る。
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