現代社会における「人間の形」に対し、異形の私はどう生きるのか。

 新年明けましておめでとうございます。絲蒟蒻です。

 2023年があっという間に終わり、気がつけば2024年に突入。
やる気いっぱい、希望いっぱいに始めたこのnoteも、しばらく投稿できていないまま新しい年を迎えてしまいました。

 今回は何かについてというよりも、自分のために今年の抱負を1ページ。

 私は現役の芸術大学生です。(ご無沙汰すぎるので改めて自己紹介)
専門として学ぶのは、実は「舞台音響」です。
幼少の頃から音楽と触れ合い、病める時も健やかなる時も音楽と共に今日まで生きてきました。
音響の世界への興味を捨てることができずに大学まで来てしまいましたが、今、自分の社会人としての生き方を考えた時に身を置く場所として選ぶには適さないと感じ始めています。

というのも、私は「人間」として人の作り出した「社会」を生きていくことがどうも苦手なのです。
苦手というと「努力でなんとかなるんじゃないか」なんて指摘が飛んできそうですが、そんな指摘はずっと昔に自分自身から受けました。
それを踏まえてみても、努力なんてものでどうにかなるものではないのです。

 多くの人がなんの疑問も抱かないものに対して、なぜ?が止まらない。
同級生が学校を目指して歩いていく中、通学路に落っこちている不思議に気を取られて真っ直ぐ歩くことができなかった。そのうちに学校へ行くという目的さえ忘れてしまう。学校へ行くことが重要なことと思えなかった。
それより、道端にある不思議を解明することの方が自分にとっては大切だった。
幼い頃、人間はそうやって生きていくことを許される。それが年を重ねる毎に許されなくなっていき、矯正される。私たちがいずれ出ていく「社会」はもう出来上がっていて、私たちはそこで生きていけるようにと育てられる。人間の形は決められている。

 私はその形にハマることができないのだと気づいてしまった。だから自分の形のまま生きていける、インサイドアウトサイド的な生き方、働き方を探している。

 葛藤を繰り返した末の現在地でしかありませんが、これは「逃げ」ではなく、私の戦い方「戦法」であると考えます。
2023年まで生きてきた私の現在地です。

 言葉を紡いで、社会を生き抜きたい。
これからも訓練を、マイペースに続けます。2024年もよろしく。

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