ヒント-007
10代の頃から、ライブハウスで遊ぶことが多かったせいか、舞台作品はダンスでも演劇でも、苦手なところがあった。
一言で言えば、演者の動作や佇まいが「大げさ過ぎる」ように感じたのだ。
振付家となった今では、その理由の一つは分かる。アクション等をある程度大きくしなければ、10メートル先に座っている観客に認知させることはできないのだ。非常に現実的で物理的な理由だ。
他にも、デコラティブなものを良しとする美学もあるかもしれないが、ダンスやバレエにしても、自分は最初は「いちいちわざとらしいアクションだな」と思ったものだ。
ただ、この「わざとらしい」と思ってしまった当時の感情は、手放してはならない、常にこれに意識的であらねばならない、と自分は肝に銘じている。
なぜなら、この感情が観客の内側で湧き上がってしまった瞬間に、彼らは、ショウにのめり込めむことが難しくなってしまうからだ。しかも石山だけでなく、少なくはない人々が「この感情」をぼんやりと持っていることが多いのだ。だからシアターデビューする(初めて観劇する)人の数が、東京ではずっと鈍化しているように思うのだ(あくまでも石山の肌感覚だが。シアターの「常連さん」の話ではない)。
ダンスに関して言えば、「このダンサーは、振付家にゴリ押しされて、無理してこういう動きをやっているな」と思わせてはならないだろう。もちろん振付家が一方的に指定した「決め振り」であっても、ダンサーと振付家が話し合って、共同で決めた「納得している」動きのフレーズだったしても、観る側をそのような状態に誘導してはならない。
そこを回避する方法は、一つしかない。数多く、その動きのフレーズ/シーケンスを自身の体でリハーサルを繰り返すことだ。
今でも日本に蔓延っている、「根性論」を肯定する気はさらさらないが、稽古/リハーサルを重ねることによって得られる、「説得力」としか言いようのないものがあるのも事実だ。
極論してしまえば、『あの出演者は、舞台の上でしか存在しない人なのかも。呼吸をするように「自然に」あのアクションを繰り出してる』と思わせるようなレベルまで、自分は辿り着けないかと常に考えている。そうでなければ、「わざとらしい」との烙印を押されて、ゲームオーバーだ。
ダンスやシアターのアーティストはもっともっと、このポイントに敏感になるべきだろう。
自分もいろいろ考えるが、そこを解決するヒントは、アクションにおいては「機能美」をベースにしたものにあると思っている。
例えば、ギターをかき鳴らすギタリストの腕の動作に、特段「わざとらしさ」は感じられない。楽器を弾くことが目的のアクションなので、動きに無駄がないのだ。こういう地平にダンサーの動きも毎回至れればと、いつも思っている。
(文責・石山雄三)
次回は8月5日、掲載予定。
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