ダンス/パフォーマンス作品を作る際に、こちらは、参考になりそうな楽曲をいくつか選択して、再生順に気を配りながら、リハーサル・スタジオで流していたりする。これはショウの流れのだいたいの確認作業をしている感じだろうか。 ただ自分の作品は、楽曲が先に決定されて、その後に出演者の体の動きや照明、そしてインスタレーションのプランが決まっていく、という訳ではない。全ては同時に自分の頭の中でひらめくのだ。 しかしこの頭の中の「情景」は、非常に解像度の低いもので、ぼんやりとした画だ。そこか
「沈黙は最悪です」 よくクリエーション/リハーサルやワークショップの時に、参加者に言うフレーズだ。 こちらが体の動きについて提案した時に、同意/不同意を示さず、とにかく体を動かしてしまうダンサーは時々いる。こちらの言葉は「命令」ではないのに、だ。 石山は、作品を作る上では、振付家もダンサーも対等だと思っている。しかも各参加者の、思想的/経験的バックグラウンドは全員ばらばらなのは当たり前と認識している。 即座に、体を動かして「提案」を試してみたいという気持ちも分かる。ただそ
自分のクリエーションの現場で、禁句が1つある。「ダメ出し」という単語だ。 よく日本のダンサー達と仕事をしていると、「ダメ出し」を求める者が結構いるが、ダメなところに過剰に目を向けている姿勢は、こちらとしては疑問なのだ。 ダメなところよりも、いいところを伸ばす事にもっと注力すればいいのでは?と、いつも感じている。 更に言えば、こちらが出演者のキャスティング権を握っているプロジェクトの場合、ダメな出演者をチョイスしたのは、石山の責任ということになり、「ダメ出し」は出演者ではな
振付家というと、ダンサーの体の動きを自ら全て指定して、「指示」する人をイメージするだろう。 エンターテイメント界の人はもちろん、そういう人が殆どだ。自分の考案した「振り」をダンサーに伝え、出来なければ、練習もさせるし、厳しい「アドバイス」も飛ばす。ぴりぴりとした雰囲気にスタジオがなることもある。 それも1つの正解だが、アート界の振付家、特にコンテンポラリーダンスの振付に携わる者はそうではない方法も採用している。 ダンサーと対等に接し、本人の身体の特性等をディスカッションし
石山は自分の振付/演出作品で、自ら出演してしまうことが多い。 これは出演料等の予算的な部分も関係しているのだが、そのパートは非常に慎重にクリエーションを進めている。 当たり前だが、自分の体の動きを自分でリアルタイムで、第三者の視点で確認するはできない。スタジオにある鏡を見ても、首をそちらに向ける等、余計なアクションが入って、「その時の動きそのもの」を目視することはできない。 ただ、動いている際の、自分の体内の感覚は直接的に感じられるので、この情報はかなり役に立つ。「自分が指
ダンスの手法として、コンタクト・インプロビゼーションというものがあるが、共演者に自分の身をゆだねたり、接触しながら複数人でダンサーが動きを展開するメソッド、もしくは振付法だ。 ある程度確立されている手法であるが、自分はひねくれているせいもあってか、積極的に自分の作品には取り入れることには躊躇してしまっている。 共演するダンサーへの「信頼/ラブ」のようなものが、このメソッドには、ベースになっているからかもしれない。 そうでなければ、他のダンサーの背中に乗っかってみたり、腕を絡
ライブ作品の「主役」について考えた事はあるだろうか。 どれがなくてはならないもので、何をメインに自分達はパフォーマンスを観ているのだろうか。 多くの人は「出演者」と答えるかもしれない。ダンス作品に限っていえば、その割合は増えるような気もする。「ダンサーの存在、そしてその動きこそを観に来たのだ」という感じだろうか。 自分はかなりひねくれているので、ダンス作品であったとしても、「観る」となれば、ステージ空間及び照明のデザインにまず目がいってしまう。ダンサーについては、「こうい
少々、毛色の変わった話をする。 回転運動をターンと言ったりもするが、これは出演者がやらないとならないものだろうか。 回転するオブジェがあったとして、それがくるくる回ったら同じような効果、もしくはそれ以上のポジティブな感情を、観客から引き出すことが出来る可能性はないだろうか。人間がこれをやる切実な理由は、本当にあるのだろうか。 振付を考える時、パフォーマンス作品を1から作り出す時に、そういう事も考えている。 ロックの楽曲で、「このフレーズはギターではなく、キーボードで弾いた方
振付を考えている途中で、体の動きの流れやコンビネーションがどうしても決まらない時もある。 「これだ!」という状態に至らない、非常にもどかしい時間だ。 自分はその際によく「引き算」をしてみる。 要するに、アクションの数が多すぎて、体全体の動きとして、いまいち向かっている方向がはっきりしていないことを、まず疑うのだ。これは情報量が多すぎて、整理されていない状態であるとも言えるだろう。 具体的には「腕を動かすことを辞めて固定して、下半身の動きのみにする」とか、「ステージを踊りな
ダンス・クリエーションにおいて、ノリやグルーヴを過剰に重要視することには、違和感を覚える。 これは、前にも述べたが、あくまでも「アートとしてのダンス」の話だ。「スポーツ枠のダンス」ではない。 自分が体を動かして楽しむダンスなら、グルーヴにいくらでもこだわって欲しい。 ひょっとして、振付家ではなく、ダンサー目線で体の動きのフレーズをつないでしまい、「こういう動きが続くとスムースで、踊っていて気持ち良い」というような意見の方が、最近、優先されているのだろうか。 だが、そうなる
タイムベースド・アート(Time-based Art)という言葉をご存知だろうか。 簡単に言えば、作品発表に時間がともなうアートのことだが、シアター等でのパフォーマンス、音楽、映像作品等を指す。 「始まり」と「終り」があるものと言えば、想像しやすいだろうか。もしくは時間の流れをデザインしているものというか。 アートでもいろいろなジャンル分け/カテゴライズがあるが、この切り口を知った時には、本当に膝を叩いたものだった。 自分もパンクバンドから始まり、映像やサウンドインスタ
10代の頃から、ライブハウスで遊ぶことが多かったせいか、舞台作品はダンスでも演劇でも、苦手なところがあった。 一言で言えば、演者の動作や佇まいが「大げさ過ぎる」ように感じたのだ。 振付家となった今では、その理由の一つは分かる。アクション等をある程度大きくしなければ、10メートル先に座っている観客に認知させることはできないのだ。非常に現実的で物理的な理由だ。 他にも、デコラティブなものを良しとする美学もあるかもしれないが、ダンスやバレエにしても、自分は最初は「いちいちわざと
当たり前だが、「ここで、こういう動きがあれば、より良い作品になるだろう」と思えば、その方向性に沿う形で、振付家は作業を進めていく。 しかし、こういう時に、自分はよく「正反対の動き」を想像してみたりもしている。 何と言うか、「+100」の動作が必要ならば、「–100」のものを、思い浮かべたりしているのだ。 具体的な例を挙げると。流れるような流暢な動きが欲しければ、逆にぎくしゃくした動きとはどのようなものだろうかとか、ステップを切ってクイックにステージ上を駆け巡るようなものな
自分は、スピーディな身体の動きのフレーズを好んでいる。 しかも空気を切るような、シャープで力強い動作だ。準備動作なく、一気にトップスピードに達するものなら、なお良い。自分の振付の中では、そういうパートは必ず入っているように思う。 もちろん、それとは正反対の、しなやかで流暢な動きも設定するし、ダンサーによってはそのボリュームが多いことさえある。しかし、それらはスピーディでシャープな体の動きを引き立てる為に、あえてそうしていることも多いのだ。 「そもそも」ではあるが、自分が好
何だか良くない振付が出来てしまうことも結構ある。正確に言うと、たいして悪くもないが、取り立てて良くもない体の動きと言えばいいだろうか。こういうフレーズは、なかなかブラッシュアップが難しい時がある。 そういう時には、一旦、「完成形」を忘れて、変化を加えてみることにしている。 具体的には、「動作が生じる体の部位や、動作回数などの数字の部分を変えてみる」という方法をとることが石山は多い。 これはなかなか分かりづらいかもしれないが、より単純化すれば、まずは体を動かす具体的な部位を
突然だが、今、体の動きのフレーズがあるとして、それをどう共演者等の「他者」に説明するだろうか。 素直に考えれば、自分の体で再現してみせるパターンが多いとは思う。 ただ石山としては、言葉なり図を用いて説明し、伝達することをここではお勧めしておきたい。 これは堅苦しく考えることなく、「激しく、ガガガガーと20秒くらい腕の動きをやって、次に、柔らかくポロポロポロと円を描く動きだった」みたいな感じでもいいのだ。つまりは「翻訳」だ。 こういった形で、他者に情報を伝えようとするならば