能楽師、足を組む
きっかけは朝の後悔
朝、いつも我が家では11ヵ月の息子が最初に起きる。ぼちぼちすると妻が朝食の支度を始めて、ご飯の良い香りと共に息子の元気な声が聞こえてきて、やっと僕は目を覚ます。そこから少しして私の身体が初めて縦になる。決まって家の主人は1番遅いお目覚めだ。
そのような毎日を送る自分が、ふと、駄目な気がした。数年前の修行時代、舞台のお勤めが少ない日は必ず御所へ散歩に出かけたものだ。それも早朝の5時過ぎだった。師のもとから独立して3年目に突入した今、完全に堕落している。いかがなものか。日々の生活には慣れたものの、どこか弛んでいる。目的も無い…。だから起きられないのかもしれない。
無常迅速という言葉があるように、時は少しも待ってはくれないのだ。欠落した朝の時間を取り戻すべく、私は朝活を始めることにしたのだった。
坐禅との出会い
朝活を始めようと思い立ち、先ずは何のために起きるのかを考えた。目的を設定して、それを成し遂げる固い意志を持たなければ続かないと思ったからだ…少なくとも僕はそういう人間である。能楽師らしく能の稽古か、それとも趣味の時間にするべきかとあれこれ悩んだ結果、座禅を始めることになった。
付近をよく散歩をしていて、とあるお寺に「坐禅毎日」という看板がかかっていることを思い出した。これは誠にご縁。早朝の坐禅を理由に、怠惰な自分の体に早起きをさせようと思った。もちろん坐禅に興味があったからこそ始めようと思ったものの、キッカケは早起きのために通うということだった。それが坐禅入門者として不適切な気がして何だか恥ずかしかった。
しかし、思い立ったが吉日である。早速問い合わせを済ませ、明日のために早く寝ることになった。
坐禅とは己との対峙
いざ、朝6時にお寺の門前へ。小さな勝手口のような扉から、恐る恐る、同時にワクワクしていた。門の向こうにある新しい世界へ、僕は第一歩を踏み入れたのであった。
和尚さんは優しくて話しやすい方であった。僕がどこの誰だか問うこともなく、丁寧に坐禅の説明をして下さった。まだ外も暗いこともあり、坐禅が行われている方丈という広間は、とてつもなく広く感じた。まるで宇宙のようだった。よく見ると、周りには既に足を組まれて静かに坐る人々がちらほら。
まず、無理なく足を組む。しびれたら組み替えても良いと言われた。日頃、舞台で正座をする職業の僕が足を組み替えるなど、言語道断である。30分の坐禅は、1時間も2時間も座る能楽師にとっては問題がないと思ったが、結構痺れてしまったのは言うまでもなく…。
背筋を伸ばして、頭から一筋、天に突き抜けるように。頭を上から糸で引っ張られるような姿勢を保つことが大事と教わった。そして、手を輪っかにしてオヘソの前に楽に構えた。息は鼻から吸い、最後まで吐く。
108の煩悩は有名ですが、僕の初めての座禅でも本当に煩悩だらけで、無とは遠い世界の話でした。
和尚さんによると、坐禅は無理に"何も考えない"ようにする必要はないと言う。ひたすら今自分がどう座っているのかなど、己の姿勢のことを考えるだけで良いそうだ。そして静かに呼吸をする。いつかは、そこに自分が在るだけの、そういう感覚になれるようだ。
ちなみに能楽の舞台で座っている時は、実に色々なことを考えている。後見であれば、シテの装束の乱れや舞台進行のことを常に気にしているし、地謡であれば囃子を聞きながら次の謡の呼吸を感じている。同じ座るでも、坐禅で座るのと能では、全く異なるものであった。
さて、はじめての坐禅は気持ちがよくて、帰路は清々しい気分であった。1日の始まりとしては最高である。しかし坐禅自体は簡単なものでは無いと思った。正しい姿で呼吸を整えること、そして何も考えないことをやめる、など、改めて考えると実に奥が深い。坐っている自分を外側から見つめ、そして自身の呼吸を知り、時には心の中を覗くことも。大袈裟だが、これは初めての己との対峙かもしれない。
早起きの為などの下心ありの気持ちでスタートをきったが、これは生活態度の改めにとどまらず、己を見つめる良い機会を得てしまった。これは思わぬ収穫と言っても良い。是非皆様にもオススメしたい。
いただいたサポートは、能の稽古が終わった後の晩酌代に充てさせて頂きます!