明治維新、背後にあった私塾の存在
明治維新、背後にあった私塾の存在。
「志を同じくする仲間と熱く語り合いたい!」
維新の志士たちは、同志を探し回って、同志がどこそこにいるとなれば、「脱藩行為」をしてでも、同志に会いに行った。会えば、夜を徹して熱く語り合った。そして、他に同志はいないのか、どこそこにいるぞ、となれば、また、藩を越えて同志に会いに行った。そして、いつしか、維新の志士たちのネットワークは3000名を超え、新しい国を開くということがありました。
その時、私塾は同志が繋がりあうための装置として機能しました。
そして、時を超えて、いま、世代を超え、縦割りを超え、同志が繋がりあう場として一新塾の役割があるのだと思います。「21世紀の松下村塾を目指す!」一新塾創設の時からの合言葉です。
江戸時代の末期、ペリーの来航によって、吉田松陰は浦賀を訪れていたペリーの艦隊を眺め、「日本を守るためには、まず外国を知らねば守れない」と、黒船に乗って渡米することを思いつきます。しかし、松陰の必死の懇願も通じず、アメリカ側は乗船を拒否します。死を覚悟しての行動でしたが、結局、自首を決意し、松陰は野山獄に入牢されることとなります。
その野山獄で出会ったのは、長い獄中生活で、いつ自由になるとも知れず、希望を捨て、死んだ目をした11人でした。松陰は、一人にまず語りかけます。
「欧米列強の国々が押し寄せるこの時代をどう受け止め、どう行動すべきなのか?生きるとはいかなることか?」限りを尽くして一人にとことん向き合い、あらん限りの情熱を注ぎ込み、共に立ち上がろうとぶつかっていきました。ついには、その一人の胸の中では、埋もれてしまっていた志が揺さぶられ始めるのでした。
すると、その様子を見ていた他の者が「私も学ばせてください!」と声を上げます。一人、また一人と加わって、いつしか獄舎は学び舎と化していきました。松陰は、野山獄から出た直後に、叔父から松下村塾を受け継ぐこととなりました。幾多の維新の志士たちを輩出した松下村塾で行われた“志を揺さぶる教育”は、まさに、野山獄で一人に魂込めて限りを尽くしてとことん向き合った中で磨き上げられたものではないかと思います。
松陰は、一人を変えることからの社会変革の実践者でした。
応えたい対象者を一人に絞り込む。
具体的に誰に応えたいのか、徹底的に絞り込み、一人の人間に定めていきます。そして、その人に会いに行き、話を聞かせていただき、その人に徹底的にアクセスしていくことで、問題の根源もビジョンも浮き彫りになっていきます。さらに、その一人に応えるために自らの志を鮮明にして限りを尽くして完全燃焼する。その熱が激しければ激しいほど、続々と他の方へと連鎖を起こしていきます。
社会が変わるとはそういうことだと思います。
★21世紀の松下村塾 一新塾