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ツーブロック禁止の校則に対する一考察
本音は事件や事故に「遭う」ではなく「引き起こす」
先月(7月)、ブラック校則の問題に関連して、「ツーブロック」(サイドを短めにカットして上下の髪に段差をつけたヘアスタイル)を禁止する校則の是非が話題になり、Twitterでも「ツーブロック」がトレンド入りした。
発端は、今年の3月12日に開かれた東京都議会予算特別委員会において、池川友一議員が藤田裕司教育長に対し、校則でツーブロックが禁止されている理由を尋ねたことだった。
この質疑に対して教育長は、
「外見等が原因で事件や事故に遭うケースなどがございますため、生徒を守る趣旨から定めているものでございます」
と答弁したのである。
池川議員はこの答弁に
「率直に言って意味不明ですよ。驚きの答弁だと思います。」
「率直に言って、社会の常識、時代の進展を踏まえたものとは言えない。まさに学校の中の独自のルールになっていると考えます。」
と返したが、この質疑応答の様子を収めた動画がネット上に投稿されるやいなや拡散し、炎上。
中には「サザエさん」のタラちゃんの画像を引っ張り出してきて反論する姿も見られた。
私自身もこの答弁の非合理性に思わず吹き出してしまいそうになった。
「ツーブロックは事件や事故に遭う原因となるため、生徒を守る趣旨から校則で禁止している」
というのは、いくら何でも無理がある。おそらく本音は、
「ツーブロックは事件や事故を引き起こす非行の原因となりうるため、非行から生徒や学校を守る趣旨から校則で禁止している」
であろう。
ツーブロックによって事件や事故に「遭う」のではなく、「引き起こす」。これが本音なのだと思う。
「生徒を守る」についても、本音を言えば「非行から生徒や学校を守る」であると思われる。
以上を踏まえて教育長の言いたかった(であろう)ことを正確に言い換えると、
「ツーブロックをはじめとするオシャレによって気が大きくなった一部の生徒が、教員の指導に従わない、反抗的になるなど、非行性が高まる危険が予想される。そうした非行に生徒が走らないよう校則で禁止している」
となるのではないだろうか。
これを建前上、「生徒の安全を守る趣旨」などと言い換えてしまったことがいけなかった。
これでは真意を汲み取ってくれる人がいないばかりか、池川議員のように「率直に言って意味不明」と驚く人が大半だろう。
本音では、事件・事故を起こすのは「生徒」と言いたいのだろうが、それでは教育長自らが生徒を信用していないことを表明したことになってしまうので、苦し紛れに「君たちの安全を守ろうとしているんだよ」と言い換えたのである。
オシャレには人の性格を変える効果がある
ツーブロックが禁止されるのはなぜか。その答えは単純に、オシャレだからである。
オシャレは学校では禁止、ただそれだけである。ふざけているのではない、本当である。
学校はオシャレを認めない。ゆえにツーブロックは認めない。これは何もツーブロックに限ったことではない。お化粧はオシャレ、髪を染めるのもオシャレ、ピアスもオシャレ、装飾品もオシャレ、制服を着崩すのもオシャレ感覚の発現である。
オシャレには、内向的な性格だった人を積極的にしたり、社交性を高めたり、自信をつけてくれたり、明るくする効果が期待できるというのは多くの人が同意してくれるだろう。
化粧しかり整形しかり、外見の変化は内面の変化をもたらすものだ。
ツーブロック・ヘアスタイルというのは今や一般に流通しているオシャレの一種である。ツーブロックの芸能人だってたくさんいる。
では、なぜ学校はオシャレを嫌うのか。それはすでに述べたように、オシャレになると人は自己主張が強くなりがちだからである。
オシャレは個性の目覚めの一つの形態である。外見が変わると内面にも少なからぬ影響が出る。「イケてる自分」という意識は、その「イケてる自分」を表現するように自分の言動を導いていく。
それが悪い方向に転ぶと「反抗的」になる。そういう防衛的発想が学校側には無意識的に働いているのである。
事実、ツーブロックを禁止するのはおかしい、間違っているという意見が多勢であった中にも、少数ではありながら、ツーブロックに「威圧感」を感じたり、「怖い」「ヤンキー(不良)のイメージがある」という印象をもつという意見も散見された。
ということは、中には、威圧的に見せたい、怖く見せたい、不良っぽく見られたい、といった意図をもってサイドヘアーを刈り上げる生徒もいる「かもしれない」。
そういう生徒がツーブロックにすることで、実際に威圧的で不良っぽい言動をとるようになるということはあり得る話である。
ヤンキー(もはや絶滅危惧種だが)はまずは外見によってその反抗的姿勢を表明しようとする。そしてヤンキーの多くがツーブロックを採用すると、自然とツーブロックはヤンキーの「記号」として流通することになる。ツーブロックにそういうイメージをもつ人は、校則として禁止することに対して一定の理解を示すであろう。
しかし、私は別にツーブロックがヤンキーの象徴だということを言うつもりなどない。ツーブロックは今や一般的なオシャレの一形態である。
ただし、その一方で、ツーブロックをオシャレの一形態だとすると、ただのヘアスタイルというよりは、何らかの「心理的記号」であると捉えることも可能である。「モテたい」と希望する男女が、ファッションや化粧、あるいは筋トレなどによって外見をオシャレに改造しようとするのと似たような心理的な働きが作動している可能性がある。
その「記号」の意味を「逸脱」「反発」「自我」といった言葉と結び付けて捉えてしまうのが学校なのである。もちろんそんな深い意図などもっていない生徒もたくさんいるが、可能性の問題として、そういう心理的意図を孕んだツーブロックもある「かもしれない」ということも否定はできない。
というわけで、あらゆる可能性を考量すると、そのうちの一つにツーブロックが非行を助長する「かもしれない」と考えて一定の規制を設けるのは、あながち支離滅裂なものではない。
(というか、そういう包括的な発想こそが社会的ルールの始原である)
何百人という単位の集団生活を統制していく学校の危機管理意識として、どうしてもそうした芽を摘むことに過敏になってしまうのは宿命であるといえるし、私は個人的にはそれほど支離滅裂な校則とも思えない。
あまり無責任に校則撤廃を声高に叫ぶ人を、私は信用していない。
多少なりとも責任感のある大人なら、校則の撤廃を安易に叫ぶ大衆に迎合する前に、そもそも、なぜそれが校則として全国的なレベルで合意されるまでに至ったのかについて、まず納得のいくまで考えるはずである。そこまで広く共有されてきた規則なのであれば、必ず何らかの「知恵」が作動しているのではないかといったん考えてみるのが、平衡感覚のある人の思考である。
その知恵をしっかりとあぶりだした上で、本当に必要かどうかをもう一度考え直していくという工程を踏むのが賢者の発想である。否定だけならサルでもできる。
おそらく、そういう無責任な人たちは、お化粧もいい、髪を染めるのもいい、ピアスもいい、装飾品もいい、制服を着崩すのもいい、タトゥーだっていい、といったふうに規制などとにかく撤廃していくことがいいんだ、子供たちから自由を奪うななどと、際限なく言い続けるに違いない。
自由と無責任を混同するのはやめてほしいものだ。
学校は同質化を求め、オシャレは差異化を志向する
もう一つ見落としてはならないのが、オシャレとは他者との差異を示すための行為であるという視点である。
しかし、学校空間では同質化が求められる。
そもそも「制服」というものが「みんな同じである」ことを求めるものだ。
だからツーブロック禁止に怒る人は、論理的にいうと制服の撤廃も求めなくてはならない。
でも、そういう空気にはならない。それはなぜかというと、制服はちょっとしたアレンジでオシャレに着こなすことができたり、女子高生という言葉がブランド化していたり、有名校に通っていたりする場合などはむしろステータス化されたりするからである。
「みんな同じ」という条件の中で、いかに個性を出すか(差異化を図るか)が刺激なのであれば、むしろ制服は好都合なアイテムというわけである。
ともあれ、あらゆるオシャレに共通するのが他者との差異を示す心理的記号だとすると、学校としてはそれを認めるわけにはいかない。
なぜなら、差異はさらなる差異をもってしか差異化できないという無限ループにはまるからである。
消費社会には、原理的に、差異は差異を生むという再帰性が備わっている。
ツーブロックといっても程度の問題がある。はじめは、ゆるやかなツーブロックだったとしても、もしその程度のツーブロックが「普通」の髪型になってしまったら、次はさらに刈り上げたツーブロックで差異化する生徒が出始める。
商品と同じである。いかに他社の同じような商品と機能的・デザイン的な差異化を図るかによってしか個性を生み出すことはできない。
そう考えると、ツーブロックに「何センチまで」と決めて、教員が毎日定規で測定するといった数量的基準を設定することなどできない以上、「ツーブロックを禁止」するという形でしかルールを設定できないというのは仕方のないことだといえる。
学校は国家というシステムの一部である
最後に。若干脱線した話で補足しておくと、公教育学校というのは、その制度の目的からして「国家を構成する成員としての国民教育を施す場」である。
あらかじめ断っておくと、ここに述べているのは私の意見ではなく、ただの歴史的経緯と事実の話である。
とりわけ日本では「富国強兵」「殖産興業」のスローガンのもとに学校という制度がスタートしたという歴史的起源をもつがゆえに、「勤勉であること」「組織に従順であること」を過剰なまでに追求してきた(「方言札」などは顕著な一例である)。
それゆえに、組織に従わないというのは、ただちに「非行」であるという発想に直結する。これは教員に対しても同様である。
その規則が合理的かどうかは重要ではないのである。ただ組織の定めている「規則に従う」というマインドだけが重要なのであり、その非合理性を問うような主体性は排除されなければならない。
だから、個性を伸ばせ、主体性を伸ばせというような風潮が沸き起こったとしても、それを額面通りに受け取ることは危険である。
公教育学校にそうした理念を持ち込んだ瞬間に見えない力が働いて形骸化し、実現することは構造的に難しいからだ。
「学校という組織が求める範囲での個性、主体性」という形で骨抜きにされてしまうのである。
では、「学校という組織が求める範囲での個性、主体性」とはどのようなものか。
それは学校というシステムを維持・強化するための働きかけができるリーダーシップといったものである。
たとえば、校則を守らないことに対して不正を感じ、その公正な心を埋もれさせることなく行動へと発露させ、守るよう集団に対して促すことのできるといったような生徒である。
学校における個性、主体性という言葉には暗黙の適用範囲があり、その範囲を逸脱することは「非行」とされてしまう。
たとえば、最近の例でいうと、水泳授業のあり方を問うビラを配った都立高生が逮捕されたというニュースが話題を呼んだが、こういう主体性の発露は「非行」となり、排除されるのである。
残念ながら日本とはいまだにそういう国なのである。そして残念ながらこの体質は今後も変わらないだろう(それどころか近年、国際的関係の緊張の高まりに伴って、漸進的に強化されている)
学校というのは国家という組織を機能させるシステムの一部であり、それ以上でもそれ以下でもないということを肝に銘じておかなくてはならない。
額面通りに個性、主体性という言葉を受け取ってしまうと、実態に跳ね返されて不適応を起こしてしまいかねないので要注意である。
日本の小中学校では今、およそ12万3000人が不登校だといわれるが、私はこれまで述べてきたことと相関関係があると思っている。
さて、こうして見てみると、ツーブロックを禁止する理由は、「学校という組織が校則によって禁止と定めているから」でしかない。
ダメなものはダメなのであって、そこに理屈などいらないし、理屈を求めること自体が「非行」の始まりなのである。
身も蓋もないが、これが学校教育の本音である。しかし、それでは納得してくれそうにないので、もっともらしく「生徒の安全を守るため」などと言ってみたが、逆に胡散臭く聞こえてたくさんの反発を生んだのが今回の教育長の答弁だったといえる。
私の考察にどれくらいの人が同意してくれるかはわからないが、私は個人的にはツーブロック禁止の校則は、現行の学校というシステム上、一定の合理性を見出すことができるということを書いた。
ただし、賛成しているわけではないので悪しからず。
こんなことがわざわざ議会で取り上げられ、その答弁に対する非難がトレンド化してしまうほど、今の学校システムはもう破綻している。現行の制度を根本から見直すことを迫られていることは確かだと感じている。