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ほんもののにせもの

友人のギタリストの方が昔「自分は職業ミュージシャンで、ほんもののミュージシャンというのはスペインの街角で自分の趣味と友人のためだけに弾いてる人だ」と話してくれたことを、時々思い出します。自分がやってる仕事って本物なんだろうか?とか・・

これからのブランディングのキーワードとしてオーセンティシティAuthenticity(ほんものらしさ)が大事といわれます。でも商売やサービスとして量産される時点で本物の基準とはどうなるのでしょうか?

”イタリアのママがつくる本物のパスタソース"は本人が目の前でつくるものでなく、商品として店頭に並んだ時点で「ほんもののにせもの」になるんですよね。

そんな禅問答のようなグルグルとする問題について真っ向から立ち向かったのが、経験経済で知られるJ.H.ギルモアによるこちらの著書。アメリカ事例(一部ユニクロとかありますが)が中心ですけど、着眼点と解説が面白いです。ただ、ずーっと「ほんもの」「にせもの」って言葉が羅列され、途中で目がクラクラします。

著者が冒頭で堺屋太一氏の論説を引き合いに出し「アメリカの大量生産型システムは、日本の改善によってより完璧になり、コストカットと生産効率向上ができるようになった結果、一回限りの消費で使い捨てられる偽物が街にあふれるようになった。」という見解があります。そして、マーケティングやブランディングはその販売装置として発展するわけなんですよね。

日本で寿司を食べる行為はアメリカの人から見れば「ほんもの」を体験する行為だが、じゃあそれが回転寿司だった場合、それでも「ほんもの」なのかは議論を生みそうな話。つまりは、ほんもの=自分という価値基準の範疇を出ない、ということなのか、となんとなく結論付けた本です。

そういえば最近の事例だと、マリトッツオがどんどん日本で進化?して鮨と融合してたりするのも、ほんもののにせものかもしれませんね。

ほんもの(2009年、JHギルモア&BJパイン、東洋経済新報社)

【本日の朝食】

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アボガドとツナのトースト、舞茸のマリネ、キウイにて。

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