
燈 臺 船 (五)
獨乙ノイマン社の作品「罪と罰」
は表現派的演出の映畫である。い
ままで私がみた映畫のうちで、表
現派映畫といはれるものでは、「カ
リガリ博士」「ゲニーネ」「ドクト
ル・マブゼ」「朝から夜中まで」「月
の家」などがある。みな獨乙の作品
ばかりである。たゞひとつ、日本活
動寫眞會社の作品で大泉黑石氏の
「血と靈」といふものをみたことが
あるが、これはまへにあげた獨乙
のものとは比べものにはならない
私は表現派といふものを、別に調
べてみたこともないので、それが
どういふ主張を持ち、どういふ特
色を現はさなければならないかな
どといふ、むつかしいことは、すこ
しも知らないのだ。私は表現派と
いふ奇異な存在を「カリガリ博士」
といふ映畫ではじめて知つたので
それをみてから、表現派映畫とい
ふものは、まあなんといふ素敵な
ものだらうと、たゞさう單純に思
ひこんでゐるわけである。私の知
るところでは、表現派映畫といふ
ものは、ひどく怪奇で、深刻で、
凄絕な物語ばかりである。それを
みてゐると、ちょうど生なましい
人間の心臓をつかみだして、まつ
白い壁に叩きつけてでもゐるやう
で、私だちの神經を戰慄させずに
おかないほどのものばかりである
それは夢とか、幻想とか、妄想と
かといふ言葉でもあらはすことが
できないほど、血みどろな、不氣
味な世界である。それらは、活動寫
眞でなければ表現できない世界を
捉へてゐて、さういふ獨自の世界
を描いてゐるものほどいゝものが
多いわけである。「朝から夜中ま
で」は、ゲオルグ・カイザァの舞臺
用脚本があるからそれは別として
「カリガリ博士」「ドクトル・マブ
ゼ」「ゲニーネ」などは、全く映畫的
である。映畫よりほかのものであ
れだけの効果をあらはすことは不
可能である。あれほどの奇異な世
界を現はすためには、たとひ、街路
樹や街燈がどんなに斜めに立つて
ゐやうとも、家や馬車が歪んでゐ
やうとも、人間が蟹のやうに歩る
かうとも、彼ら表現派のひとびと
はいふまでもなく、私達にとつて
も、それが藝術的眞をもつて我わ
れに迫るものであれば、それらは
みな立派な必然性をもつてゐると
信じるほかないのだ。彼らはいき
なり、彼ら特有の靈魂の世界にと
びこんで、そこから、自然とか、物
質とかをつくりだすのだ。彼らは
自然とか物質とか人間生活とかを
ありのまゝにみるのではない。彼
らはそれらを、彼らの最も信じ得
る彼ら自らの魂をもつて創造する
のである。人間に知ることをゆる
されてゐる、ごく小さな自然の窓
をすかして、かすかに靈魂のあり
かをもとめやうとして彷徨する常
人の精神とは、路が恰度あべこべ
なのである。
私はさきにあげたやうな表現派
映畫から、銳い印象をうけてゐる
ので、今では表現派の手法を奇異
に感じることはない。彼らの常套
手法には全く馴染んでしまつたか
らである。
さて私が近ごろみた「罪と罰」と
いふ映畫であるが、これは言ふま
でもなく、ドストエフスキー氏の
小說の映畫化である。脚色者はロ
バート・ウイーネ氏で監督もまた
同じひとである。ウ氏は、私の記
憶に誤りがなければ、確か「カリガ
リ博士」の作者でまたやはりド氏
の「カラマゾフ兄弟」の脚色者であ
らうと思ふが、或は別人であるか
も知れない。
この映畫にでる役者はモスクワ
藝術座のひとたちである。
ド氏の小說で我われに親しみ多
きひとだち―主人公ラスコリニコ
フや金貸婆さん、ソサネマや醉ひ
どれマーメラドフやソニヤなどと
いふひとびとは、みな私達のまへ
を歩るいてゆくのだ。
まづ、グリゴリ・クマラ氏のラス
コリニコフは、背がたかくて、陰
鬱で、どうみてもド氏の人物であ
る。人間生活の禍と暗い苦惱とを
ひとりで背をつて、社會の不合理
を呪ふ、沈痛な感情に生きるロシ
アの大學生を完全に表現してゐる
だいいち、風貌が蒼白で、彫刻的
で、情熱的で、それだけでも十分
魅力をたゝ江てゐる。正義のこゝ
ろに燃江て、日夜社會の惡を突き
崩さうともだ江る、敏感な靑年ラ
スコリニコフを現はすのに、この
ひとの藝術は至上なものである。
いかにも動作が落ちついてゐて、
ほかのひとと足並をあはせること
を忘れない、役者としていゝ素質
を持つひとである。古ぼけた黑い
上衣をまとつて、ことにうしろむ
きになると、すつきりと素敵なか
たちである。私はこのひとを賞讃
するものだ。それから、ヴェラ・オ
ルロヴァ氏の金貸婆さんもうまい
ものである。表現にすきがないし
扮裝が甚だよくできてゐる。金貸
婆さんなぞはどうも型にはまつて
しまふものだが、このひとのは内
部的な根づよいものを感じさせる
のだ。歩るきかたがいゝし、背の
たかいラスコリニコフを大きな老
眼鏡ごしにみあげるときの表情な
どに異常なもの凄さがある。その
ほか、醉ひどれマーメラドフもす
ぐれてゐるし、ソニヤもいゝ。しか
し檢事ペトロヴィッチはいけない
これは監督の俳優選擇上の失敗で
ある。殺人者の苦惱に呻吟するラ
スコリニコフに影のやうにつきま
とつて、た江ず彼をおびやかすも
のは檢事の銳い一瞥である。とこ
ろがこの檢事はどうも平凡で、立
體的な深い感じがないのだ。まる
で銀行の支配人かなにかのやうで
主人公の魂を自由に左右する力が
このひとにあるとは思へない。こ
ういふ印象の淡いひとに檢事をや
らせたことはこの映畫全体の感じ
のうへにもかなりな影響をあたへ
てゐる。ソニヤ――このソニヤは
ド氏が心血を傾注して描きだした
女性で「罪と罰」後半では、ソニヤ
が主人公になるわけなのだ。かの
ド氏は、からだは汚れくさつても
魂は天國のきよらかさを持つソ
ニヤの心魂に、異常なる熱情を注
いで、人間のひろい、大きな、温
かい愛の福音をさづけたといはれ
てゐる。そしてラスコリニコフも
彼女の聖き愛によつて、はじめて
安らかな心境にたどりつくので、
あの小說のなかでも、ソニヤとラ
スコリニコフの生活の描かれてゐ
るあたりは、最も美しい、作者ド
氏の温い息吹をしみじみと感じ
させるところである。しかし乍ら
映畫では、このソニヤの存在は餘
り顧みられてゐないのである。た
ゞこの映畫の終局をむすぶくさり
として、つかはれてゐるだけで、彼
女のかげは甚だ淡いのである。た
とひ、彼女がラスコリニコフにむ
かつて、「街頭に立つてあなたの罪
を告白なさい。あなたの罪を淨め
るために―」と、はげましの言葉を
あたへ、彼の苦悶を救ふところが
この映畫のクライマックスであり
終末であるとしても、あの映畫に
描かれただけでは、不幸にもソニ
ヤは生命なき傀儡であるに過ぎな
い。すくなくとも彼女は、あの映
畫では、生きて我われに迫つてく
るものではないのだ。(この稿續く)
(越後タイムス 大正十四年六月廿一日
第七百七號 二面より)
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