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田舎の母へおくる芝居消息(一)

 母上――ご心配には及びません

私の精神がへんになつたといふ噂

は、悉く嘘なのです。この私がへ

んだといふことになれば、世間の

人びとはみなへんだと言つてもい

いのです。人間といふものは他人

のことはなんでもへんにみ江るも

のなのです。さうして人生は、ひ

とのことを、あのひとはへんだと

か、このひともへんだとか言ひ合

つてゐるうちに、いつのまにか黄

昏になつて了ふものなのです。

 私には人間生活をさういふ風に

しか考へられないのです。その考

へかたがまちがつてゐると仰有る

のですか――さういふお言葉には

私はお答へする氣にはなれません

母上―私を信じてください。私が

人生を輕蔑してゐるのは事實です

私が厭生家であることも事實です

然し、私が自暴自棄ではないこと

も大切な事實なのです。

 母上――可哀想にも私は今、日

夜出世といふことを考へ暮らして

ゐるのです。世間のひとだちは、

出世をせい一に心がける人間のこと

を、感心なひとだと言つて賞讃す

るといふ話です。それならば、當然

私もその一人に加へられてもいい

と私は信じるものです。

 母上――凡そ出世をしやうとす

るにはまづ第一に、世間のひとと

足並をそろへることが大切です。

私が近來、上流生活者の社交塲の

ひとつと言はれてゐる大劇塲の椅

子に凭りかかつて、いい氣になつ

て他愛もない歌舞伎芝居をうつと

りとみ乍ら、華麗な一夜を暮らす

のも、或は又、紅燈街の靑樓で妓

女と戯れ乍ら夜を更かすのも、悉

く私にとつては出世の階段を踏ん

でゆくのと同然なのです。

 私は昨夜、歌舞伎座を御馳走さ

れたのです。田舎暮らしの母上は

いい芝居をごらんになることもな

いと思ひます。芝居をお好きな母

上のために、退屈な田舎の夜の茶

話の材料にでもして頂きたいと思

つて、當夜の芝居の印象を書き綴

つたのがこの手紙です。私の精神

がへんでないことが、次ぎの一文

によつて十分母上にもお分りにな

るだらうと私は信じるものでありま

す。

 花見月の歌舞伎座は、東京と大

阪との一流役者の合同芝居です。

私が自動車で木挽町へ案内をされ

たのは、四月十三日の夕方五時三

十分頃でした。今度の芝居は午後

三時の開演ですから、私は觀席に

ついたときにはもう一番目の坪内

逍遥氏作「牧の方」三幕は終つて了

つて、中幕の「菅原傳授手習鑑」の

「次ぎは十五のよだれくり…」のとこ

ろだつたのです。床は豊竹越太夫

で私にはききなれたひとです。こ

の「寺子屋」だけでなく總て義太夫

出語の芝居をみるたびにいつも思

ひだして、ついうつかりと泣いて

了ふのは、亡くなつたお父さんの

ことです。私は浄瑠璃かたりの太夫を

みると、どうういふわけかすぐ父上

のことを思ひ出すのです。お父さ

んが義太夫に沒頭して、家産を散

逸されたばかりに、私が今のやう

な不自由な暮らしをしなければな

らないと考へると、私はお父さん

と義太夫とを怨めしく思はないで

もありません。然し一方、家屋敷

放擲ほうてきして義太夫に殉じたお父さ

んの心持も私にはよく分るのです

お父さんの語り口は派手ではあり

ませんでしたが、どつしりと重み

があつて、「先代萩」や「寺子屋」や

「柳」などを語ると、なんとも言へ

ないいい味を出すひとでした。晩

年には餘り肩のこらないものを彈

語りできかせてもらひましたが、

ひょろひょろとした痩軀さうくに三味線

をかかへて、靜かに爪びきで「三

十三間堂」などをうたつてゐられ

たのをみて、私はよく寂しい氣持

を覺江たことを思ひ出します。亡

くなるひと月ほどまへから、それ

までは決して敎へやうとは言はれ

なかつてお父さんが、どういふも

のか私に「酒屋」や「柳」のさはりや

「お染久松」のつれ引のところなど

をひととほり敎へて、終には三味

線までも覺江させやうとされたの

ですが、さういふ才能に乏しい私

が、うろ覺江のうちに永眠されて

しまつたことなども思ひ出して、

私は泪ぐんでゐたのです。ふと思

ひかへして舞臺をみると、もう松

王丸が首實檢をするところです。

松王丸は羽左衛門です。ところど

ころ口跡のいいところもあるので

すが、どうも矢張り柄が小さくて

中車のをみたことのある私には見

劣りがするのです。然し、女房千

代と一緒に二度目の出から、源藏

夫婦にことの次第を述べて泪にむ

せぶところは、流石にしんみりと

させました。私はこの「寺子屋」を

數度みてゐますが、いつも觀客が

しくしくと泣きだすのを尤もだと

思ふものです。自分の子供を殺し

てまで忠義をつくさなければなら

ないやうな時代に生れたひとの不

幸を悲しむといふよりも、矢張り

親子の情愛の深さにひかされて泣

くのです。當夜も私の周圍は、若

い美しいひとばかりでしたが、婦

人でハンカチを眼にあててゐない

ひとは一人もなかつたほどです。

男でも十人のうちで五人が泪ぐん

でゐました。私はそのうちで最も

泣かされた一人です。こういふ芝

居は、今から考へるとまるで嘘の

やうなことですが、人間の情愛が

一變しないかぎりは、相當にひと

の心を動かすものだと思ひます。

 源藏は鴈治郎です。いつか私は

吉右衛門の源藏をみましたが、吉

右衛門はひどく演出に苦心をし過

ぎて、神經質らしくいらいらとし

てゐましたが、鴈治郎は大阪役者

式のあくどい小細工も割にみせな

いで、落着いたいい源藏でした。

 大阪の福助の千代と魁車の戶浪

とは、しとやかで女らしく、いづ

れも上出來でした。(續)

(越後タイムス 大正十五年四月廿五日 
                    第七百五十號 四面より)


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        ソフィアセンター 柏崎市立図書館 所蔵



サムネイル画像出展:国会図書館NDLイメージバンクより
https://rnavi.ndl.go.jp/imagebank/data/post-183.html

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