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文人散策街

 佐藤春夫氏を街上で見かけたこ

とがわたしには二へんだけある。

たしか、それは五月の頃で、街に

は、はつ夏のかほりが、むし/\

と、たちこめてゐた。わたしは、一

册の書物を或る海邊の砂にまろん

で讀むつもりで郊外電車にのつた

のだから、日曜日でゞもあつたら

う。そこでわたしは佐藤春夫氏の

ま向ふに座つたわけだ。春夫氏は

つひこのあひだ、おもてむきにし

た、新夫人と、もう一人獨乙の若

者を思はせるほど深刻味のある容

貌を持つた二十八ぐらいにみ江る

靑年と三人づれであつた。春夫氏

は「瀨沼氏の山羊」の瀨沼氏とそつ

くりないでたちであつた。その春

の洋服は、どちらかといへばやせ

がたのからだに、しつくりと、まる

で奇麗な牝鹿のがわのやうに、す

きまなく、まとはれてゐるのだ。そ

して例のステッキを、かる/″\と

弄びながら窓外の街景をあちこと

と慌だしく眺めやる眼鏡は、夏ぢ

かい午前の日ざしに、いら/\と

ひかつた。樹木の茂みのなかをゆ

くときは、それは鮮かな新緑のか

げをうつして、爽やかにひかつた

わたしはその眼鏡のひかりのうち

にさへ、あのすぐれた藝術の作品

の感じをうけて、愉快な氣持であ

つた。

 ふと、春夫氏は夫人の袖をみつ

めだしたのだ。そして、それを自ら

の手でひろげるやうにして、もう

一人の靑年になにやら話しかけた

のだ。みると、春夫氏の指さきは、

その袖の小紋錦紗のぼかされたふ

じいろのなかに、苺ほどの赤さを

ぽつちりと描きだした模様の、そ

の赤いひとつのいろを、ゆびさし

てゐたのである。靑年はなるほど

これはおもしろいものだ、といふ

ふうに、そこをのぞくやうにみた

春夫氏もさうしたのだ。夫人は二

人の男からさうされながら、わた

しのほうをみて微笑したゞけだ。

その靑年は春夫氏の弟の秋夫氏だ

らうとわたしは思つた。いや、稲垣

足穂氏かも知れない。ことによる

と、「流星」といふ靑白い作品を書

いた、富ノ澤麟太郎氏ではあるま

いか。

 わたしはその日茅ヶ崎の砂丘の

あたゝかい日だまりで、獨歩全集

を讀みふけつたが、なにかしら愉

快を覺江たのである。

 それからもう一ぺんは秋の晩の

ことだ。四谷見附の街の夜店を散

歩してゐるとき春夫氏を見かけた

 わたしは又、神樂坂の或る珈琲

店で秋田雨雀氏とたび/\會つた

長田秀雄氏が、あの散歩街のともし

びに照らされて歩るくところをみ

た。ある晩は廣津和郎氏をみた。

金子洋文氏が、その蒼白な顔を外

套にうづめて歩いてゆくのをみた

・・・・・・・・・。

 さてわたしは、漫然とそんな私

自らの交友でもない人だちの散歩

を書きつゞるのが、この一篇の目

的ではないのである。わたしは以

上にのべた人達と街上でゆきあつ

たときには、いつでも、佐藤春夫萬

歳とか金子洋文萬歳とかいふ氣持

を昂然とこゝろに覺江るものであ

る。わたしが若しひどく醉ひしれ

てゐたとすれば、わたしはきつと、

やあ、佐藤さん、あなたの作品は

悉く素ばらしいものです。わた

しはあなたの作品を讀むためにこ

の世に生れてきたやうなものです

とか、やあ金子洋文さん、あなた

の「殺された七面鳥」は素敵にいゝ

ものだとかさけびたてるにちがひ

ないのだ。

 ところで、わたしは、野瀨市郎氏

や小川水明氏のやうな、いゝ作品

を書いてゐる人に會つたとき、上

に述べたと同じ氣持を覺江たこと

があるだらうか。わたしは、そんな

氣持以外の親愛なる氣持は感じる

のであるが、佐藤春夫萬歳と同じ

感激を覺江たことはないのである

それはわたしが野瀨君と餘りに親

しすぎるためであるかも知れない

しかし乍ら、さう考へるのは妥當

ではない。若し野瀨君や小川水明

氏が、中央公論作家であり、改造、

新潮の作家であつたとしたならば

いくら親交のあるわたしにしても

佐藤氏、金子氏にたいするとひと

しい、藝術家の魅惑をうける筈で

ある。いまの野瀨君や水明氏から

それを感じないのは、わたしの親

交の結果ばかりではない――要す

るに、兩氏が、いゝ作品を書きな

がら、日本の文學界から歡迎され

ないためである。無名作家だから

である。

 わたしはこれだけのわかりきつ

たことを書きたかつたのである。

しかし乍ら、やがて、文名さかんな

るべき兩氏の將來は、わたしの「文

人散策街」なる、痴愚を嘲笑してし

かるべきであらう。(終)

――十三年十二月――


(越後タイムス 大正十四年一月一日 
     第六百八十三號 三面より)


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