見出し画像

飢 ゑ

 晩秋の月の明るい、或る晩、一

人の年若い男が、更け靜まつた街

道を歩いてゐた。うつむいて、絕江

ず首を左右にふり動し乍ら、息を

ひそめて足を動かしてゐた。ひょ

つとした拍子に、そのむつくりと

した黑い影は、もぢゃ/\な熊の

子を思はせた。

 男は――考へごとをしてゐるの

にしては、眼が銳く働きすぎてゐ

たし、さうかと云つて、首の曲つ

た男でもないらしかつた。

 すつきりと澄み徹つた、うき立

つやうな月光が、すが/\しい程

美しかつたのに、その男は、ただ

自分の影を追ひきはめるやうに、

土の上ばかりを見つめてゐた。頬

のほの白さと、引締つた眉の濃さ

と、もみ上げ際の、小氣味のいゝ

靑さとが、際だつて、その横顔は

仲々の美しさである。

 彼の後から、軟かい土ほこりを

舞ひ立たせて、草履をひきづる女

が一人歩るいてゐた。綿をふくめ

た、厚ぽつたい裾が、足に搦み合

ふ、すれ音が、夢のやうな男の心

臓に、すさまじい本能の閃光をは

ためかせた。と同時に、彼の足が

縮むやうにゆるくなつて來た・・・

 街道は、大きな屋敷の黒塀に挟

まれて、まつすぐに、どこまでも

走つてゐた。一人の男と一人の女

との外、動いてゐるものは何もな

かつた。女の肩とすれ/\になる

位に男の足がゆるんだ時に、男は

首を傾けた儘、チラと女の襟足へ

銳い一瞥を注いだ・・・・

 女は左わきに、抱き締めるやう

に黑い包をかゝ江てゐた。その包

をジッと見守つた儘、息を吹きか

ける程近寄つて來た男の方は見向

きもしなかつた。間も無く、女の

後姿が完全に、男の眼に入つて

來た。

 女は時折、溜息をもらしては、

美しい月空げつくうを仰いだ。

 さうした動をする女の姿は、皮

膚に粘液をぬたくり出す、ある醜

い動物を思はせた。

 「醜いナ」と男は、心の底で苦み

きると、急に足を早め出した。好

奇心の失望で心が煮江たつた。首

を曲げて眼を道いつぱいに、ぐる

/\廻し始めた。女を追ひ抜く時

に、艶のない、月影を浴びても猶

チョコレート色に見江る、太い女

の足が、男の心に堪らない惡感を

起させた。

 男は、いつの間にか女のことを

忘れてゐた。さつき迄彼の心をと

きめかしてゐた熱湯のやうな性慾

の幻想も、草履のハタメキも、彼

の意識から消江萎んで、男の神經

はある一念に集中しつくしてゐた

程なく男は、前とおなじ隔を、女

との間につゞけて歩るいてゐた。

 突然男は、アッと絕叫に近い驚

聲と共に土の上へ、吸ひつくやう

にすくむだ。古い杉の梢が、ハッ

キリと影を地上に印してゐた。そ

の黑い、やゝ大きな影の中で男の

手は、薄黑い、にぎりこぶし位の

ものを、しつかりとしぼるやうに

掴んでゐた。男は渇望してゐたも

のに、ぶつかつたときの欣喜と滿足

とを顔いつぱいに漂はして、貪る

やうにそれを見極め出した・・・。

 ・・・男の顔に、云ふに云はれぬ、

絕望が現はれたのは、ほんの一瞬

の後のことであつた。と同時に「チ

エッ」と激しく呪ふ舌打といつし

ょに、手のものを力いつぱい地上

に叩きつけた。夜目にも白い土ほ

こりが、パッと舞ひ上ると、男は

鼻をそむけて、身ぶるひし乍ら、

歩るき出した。ほこりの靜まつた、

地面には、焦茶色の縮緬の男帶の

破布が、くしゃ/\に丸められた

まゝ、月に照らされてゐた。

 男の心には、緊張の頂點から下

つた空虚――ほんたうに、空洞の

やうな、遣瀬なさが、涙腺を刺撃

してやまない感情が、みちあふれ

てゐた。

「もし、あなた、もし、もし、・・・」

淡い夢心地を辿つてゐた男は、女

の銀線を叩くやうな聲をかけられ

て、强い衝動を感じると共に、春

の宵寢の頬に氷片こほりかけを押しつけられ

たやうに銳い意識をもり返した。

「はァ」男は女の近づくのを待つ

て不審さうに女の顔を見つめた儘

突立つてゐた。

「これあなたので厶いませう。今

しがた、あなたがおかがみになつ

た時、落ちたやうに思ひますけれ

ど・・・」

 女は無理に嘲笑を殺して、微笑

を堪江乍ら、靜かに、男の前へ手

をさしのべた。

 女の姿の醜さと共に汚れきつた

感をつたへる、手のひらには、男

の、安物の、鰐皮蟇口が、そのニ

ッケル金具を、キラ/\輝かして

ゐた。(一九二二、一二、一七稿)


(越後タイムス 大正十二年一月七日 
     第五百七十九號 六面より)


#小説 #短編小説 #大正時代 #越後タイムス #新聞小説




ソフィアセンター 柏崎市立図書館 所蔵




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?