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雲 (四)

雲 ――續稿
    きくち・よしを

 私はさういふ秋の心をいとしく

て耐らなくなつて、彼女のたつぷ

りとくろい無雜作にたばねた髪毛

をなで乍ら、

 ―いいとも。お前がそんなに氣

 に入つたのなら、僕だつてこん

 な嬉しいことはない。僕は階下した

 のへやにきめるから、二階は秋ち

 やんの室におしなさい。そのか

 はり、僕の居間のそばに奇麗な

 花畑をつくつてくれることと、

 僕がものに疲れたときなどには

 ときどきこの二階の窓にきて、

 秋ちやんと一緒にあの空や森を

 みてもいいことと、これだけの

 ことを約束してくれないと・・。

と言ひかけると、秋はびつくりし

たやうに眸を輝かせて私の言葉を

さへぎり乍ら、

 ―まあ、あなたなにを仰有いま

 すの。そんなことわたしとお約

 束するまでもないことですわ。

と、言つてから、

 ―あなた、わたしがどんなに嬉

しいかお分りでせうか。ふたり

 でこの窓から、あの高い晴れた

 空に雲がうかんでゐるのをみた

 り、黄昏てゆく陽のかげろひを

 みたり、さう、さう、冬が過ぎて

 三月にでもなつたら、いろいろ

 な奇麗な花を植江ませうね。あ

 なたのお好きな花と、わたしの

 好きな花とをどつさり植えて、

 この家を花だらけにしませうね

 でも、あなたのお好きな花とわ

 たしの好きな花と、きつと同じ

 かも知れませんわ。あなたなに

 をいちばんお好き?

と、心から樂しさうにまだ來ない

春の日のことまでも話し出すので

した。

 ―僕は花なら大抵好きだが、薔

 薇だつて、スヰトピイだつて、

 フリヰヂヤ、カンナ、チューリッ

 プ、勿忘草、椿、つゆ草、野に

 咲く秋ぐさや路傍の名もない花

 だつて、花といふ花は、みなそ

 れぞれにいいものばかりぢやな

 いか、秋ちやん。僕にはひとつ

 泪ぐましく好きな花がある。そ

 れは恰度お前のやうに寂しい花

 だが。お前もその花を好きだと

 み江て、ほらこのあひだみせて

 まらつたお前の描いた草繪にい

 くらもあつたぢやないか。

 ―月見草つきみくさなの。

 秋はさうひとこと言つただけで

泪ぐむやうなひとだつたのです。

 ―あの花は好きだといふ以上に

 僕らの心持とそつくりぢやない

 か。ほら、お前の描いた月ぐさ

 の繪のうへに、お前のすきなお

 友達の家村ふゆ子さんが詩をか

 いてくれたのがあるだらう。

  ゆふべとなれば
  わが窓のべに
  月ならぬわれを
  むかへて
  ―あはれ
  仄かにも咲きいでぬ

 たしかこういふ一節にはじまる

 なつかしい抒情詩だつたが。

 ―ふゆ子さん―わたしあのひと

 を大好きなの。あのひとの詩は

 それやふるいつきたいくらいな

 つかしいものばかりなの。わた

 しのたつたひとりのいいお友達

 泉郎いづをさん、それにわたしのお父

 さんもまた、月ぐさを大好きな

 のですつて。

 私だちはこういふ樂しい話を、

あとからあとからとつづけ乍ら、

冬の短い日ざしが森かげにかげる

のも忘れてゐたのです。

 秋のお父さんは、ひょろひょろ

と長いかげをひいて、私だちの家

の、つたかづらのからみついた紫

折戶をあけて來るのです。もう深

い秋でした。その頃になると私だ

ちの家のまはりは、とりどりな秋

ぐさにかこまれて、薄はさやさや

と秋風にゆれて、そのおとだけで

もひとしほと秋の寂しさを覺江ま

す。私だちがその家へ住むやうに

なつてからは、秋と話合つたや

うに、空地といふ空地には足の踏

みどころもないほどいろいろな花

を植江たものです。そのときは、

朝顔も向日葵も、もう枯れかかつ

てゐたのであるが、未だ秋のすきな

赤いカンナの花や月ぐさは咲きの

こつてゐたのです。コスモスや雁

來紅などの花もありました。桔梗や

おみなへし萩などの野の秋ぐさは

ひとりでに家のまはりの原に咲き

みだれて、草のさみしい匂ひが私

だちの家のなかにたちこめるほど

だつたのです。

 その日秋のお父さんは、自分で

つくつたのだと言つて、白と黄の

菊を持つてきてくれました。お父

さんは菊づくりの上手なひとで、

秋になるのが樂しみだといつては

いつもその閑居のせまい庭にいつ

ぱいに植江た菊の育つさまを、喜

ばしさうに私だちに話してくれま

した。

 ―ほう、お前のとこはいいなあ。

 まるで花の家だ。すすきもいい

 し、萩が咲きこぼれてゐるのも

 たのしい。

 こんなことを老人らしくぶつぶ

つと呟き乍ら、庭の片隅の土をな

れたものごしで堀りかへして、そ

の二株の菊を植江てくれたのです

 ―菊の花は影がいいと言つたひ

 ともあるが、匂ひもまた捨てが

 たいものだ。わしは菊の匂ひを

 かいでゐると、いつも清適とい

 ふ字や、清痩といふ文字を思ひ

 うかべる。わしも、うつくしく

 痩せてきたが、お前だちもさう

 あつて欲しいものだ。

 濡椽に腰をかけて、靜かに煙草

をけぶらし乍ら、そんなことなど

を、ぽつりぽつりと、いかにも樂

しさうに話しだすひとでした。私

だちはお父さんがきてくれた日ほ

ど、この世の深い平和なたのしい

ものを、しみじみと味つたことは

ありません。私だちふたりのたの

しい生活のうへに、もうひとつ心

にしみいるほどの温かいものをめ

ぐんでくれたひとは、秋のお父さ

んです。だから、さういふ日に、

ふたりとも心からお父さんをもて

なしてあげるために、いろいろと

お父さんのお好きなものなどを用

意して、いそいそとしてゐるのが

つねであつたのです。

 ―もう仲秋の月見も近いから、

 今日わしはあのすすきと萩をす

 こしもつてゆかうか。わしはしう

 草賦そうぶといふのと、月露といふの

 と、二篇の詩を昨夜はつくつた。

 ―どういふのか書いてください

 ―お父さまの詩は、とても六づ

 かしくてわたしには分りません

 の。

 ―わしの詩は女などには分るも

 のではない。氣が向いたら、畫

 箋紙に書いてあげやうと思つて

 ゐる。それから、わしは月見草

 哀歌といふのを昔つくつたこと

 があつた。あれはわしのいちば

 ん氣に入つた出來榮だから、そ

 れも書いてあげやう。

 ―お父さん。こんどのお月見の

 晩には、わたしお迎へにゆきま

 すから、是非いらつしてくださ

 いまし。

 ―うん。ことによると來るつも

 りではゐるが。ここの家の二階

 の窓から、名月ののぼるのをみ

 るのもいい。草のかほりが深い

 だけでもいい。

 ―お父さん。去年のお月見の晩

 をわたしは忘れられませんの。

 お父さんとたつたふたりで、秋

 ぐさと栗とおだんごとを月に供

 へて夜を更かした晩のことを。

 お母さまのことなどをお話にな

 つて、お父さまは泪をうかべて

 ゐらしたわ。わたしお父さまの

 お寂しいお心を偲んで泣いてゐ

 ましたの。あんな哀しいお月見

 をもう二度とすることはないと

 思ひますの。

 秋がそんな風に話すのをきいて

お父さんは、靜かに頷き乍ら、淋

しくわらつてゐました。午後の庭

のかた隅で、こほろぎが、ぼそぼ

そとこゑをふるはせて、三人はそ

れにききいり乍ら、それぞれに秋

のさびしさを深く覺江るばかりだ

つたのです。

 ―ほう、お前の家の屋根の三味

 線草が風にゆれてゐる。よほど

 古い家とみ江る。

 私だちの家の屋根を仰いで、そ

んなことをひとり言のやうに呟や

き乍ら、秋の黄昏の野路を、お父

さんはまた、ひょろひょろと杖に

すがつてかへつてゆくのでした。

(未完)


(越後タイムス 大正十四年十一月廿二日 
       第七百二十九號 四面より)

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