菊池與志夫氏より(消息八)
◎中村葉月樣――二三日まへ、佐藤
春夫さんから、小石川區音羽町九ノ
十八へ假寓したからといふお知らせ
を頂いた私は、温かい昨日の午後、
野瀨とYさんと三人で、久世山の新
居をお訪ねしました。春夫さんは風
邪をひいておゐででしたが、こころ
よく、私たちを迎へてくださいまし
た。いつも氣がるにお話をしてくだ
さるし、お會ひするたびごとに、な
つかしさを深く覺江るひとは佐藤さ
んです。
◎二時間半ほどお邪魔をしてかへり
ました。三人ともに、並なみならぬ
佐藤春夫病者なので、私たちは、そ
とへ出てからも、よろこびと昂奮と
のために、心臓のたかなるのを覺江
ました。私のやうな厭世家でも、好
きなひととか、すきなものとか、好
きな本とか、さういふものがあるこ
とを思ふと、人いちばい嬉しくなつ
て、生きてゐることを感謝したくな
るのです。
◎私たちはその夜、あのたぐひまれ
な、高貴なる藝術家に就いて、いろ
いろと讃美の言葉を交へ乍ら、東京
の街上を彷徨したのです。
――今日、われわれと、われわれの
使ふ言葉で談笑してゐられた、あ
のひとが、ひとたび、原稿紙に向つ
て、制作のペンをとると、到底、
われわれの近寄ることのできない
美しい世界を創造する―不思議な
氣がするではないか。
そんなことを話し合ひ乍ら、いつま
でも美しい氣持を覺江てゐたのです
◎春夫さんは來月頃、第一書房から
詩集をおだしになります。又、短篇
集も出されるさうです。いづれも、
私だちの切望してゐたものです。こ
とに私にとつては、あのひとの作品
は、恰もモルヒネ中毒患者がモルヒ
ネ注射を渇望するのと同じやうに、
あのひとのものを讀むたびに、生き
ることの歡びを感じるのですから、
どんなに嬉しく思つたことか知れま
せん。
◎タイムスも、あなたが毎號おくつ
ておいでになるので、みてゐられる
さうです。私なども、いつも、つまら
ないものを書いてゐるので、いつの
まにか春夫さんに覺江られてしまつ
て、恐縮してゐます。三人のうちで
Yさんは、春夫さんの賞讃をうけて
ゐるいい詩人ですし、野瀨も、いま
に、いい作品を書いて、みてもらふ
でせうし、私は文學に、志を立てる
ほど才能に自信がないので、まあ、こ
れから、折あるごとにお訪ねして、
お饒舌しでもしやうと思つてゐます
◎今から、來年のことを言ふのはへ
んですが、來年の夏は、是非柏崎へ
行つていただくやうにお希ひをして
おきましたらか、きつと、講演會をひ
らいてください。
◎もう越後の國は冬だらうと思ひま
す。こちらは毎日、小春日和です。
裏の畑には山茶花と、コスモスと、ダ
リアと菊とが咲いてゐます。それら
の花畑で、朝など焚火にあたつてゐ
ますと、もう百舌鳥がなくのです。
花を好きなひとから花をいただい
て、私は花と空と書物と、好きなひ
との幻とのなかに、たのしく棲み乍
ら、とくにこの消息を、あなたにさ
しあげて、私たちと喜びを共にして
いただきたいと思ひます。
(十一月九日深更)
(越後タイムス 大正十四年 十一月十五日
第七百二十八號 八面より)
#中村葉月 #佐藤春夫 #久世山 #品川陽子 #品川約百 #柏崎
#越後タイムス #大正時代 #野瀬市郎
ソフィアセンター 柏崎市立図書館 所蔵
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?