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D.W.グリフ井スの夢の街

◇民衆的にも、高踏的にも、藝術

といふものを愛好する結果が、コ

スモポリティアンとなりつゝある

・・・と、ある日本の小說家がいつ

たことを、私は覺江てゐる。これ

は恐らくほんたうのことを云ひ現

はした言葉であらう。

◇音樂だとか、繪畫だとか、小說

だとか、戯曲だとか、芝居だとか

ゞ好きな人々には、何んの疑ひも

なく頷ける、一つの眞理にちがひ

ないであらう。だが、それらの人々

のうちで、若し、活動寫眞をほんた

うに愛する人があるとすれば、さ

きにあげた多くのなかで、活動寫

眞ほど適切にコスモポリティアン

な感じを現すものはないと、私が

こゝへ書きつけても、多分、さう

不思議に思ひはしないだらう。

◇さういふ人々にむかつて、私は

更らにかう云ひたいと思ふがどう

だらう。活動寫眞がコスモポリテ

ィアンなものであると同じやうに

私たちの生活に絕江ず魔術師がさ

ま/″\な、美しい影繪を映してく

れるところの、夢といふものが、

それよりはもつと複雜な意味でコ

スモポリタンなものであることを。

◇だが、こゝに私のいふ夢は、た

ゞ私達が眠つてゐる時にみる、あ

の夢だけを指してゐるのではない

私達が熱心に仕事にいそしんでゐ

る時や、あてもなくぶら/″\と散

歩してゐる時や、所在なさに寢轉

んで煙草をのんでゐる時やといふ

風に――さういふ、私達が自分の

意志を立派に、はたらかせてゐる

(私達はさういふ狀態を起きてゐ

る時といつてゐるが)時にでも、ひ

ょつとした心のひらめきで、まざ

/″\とみることのできる、あの幻

影をもふくんだところの、夢なの

である。

◇實際、私達はさういふ夢をよくみる

からである。戀に溺れてゐる時とか、

自分の生きてゐることのすべてが幸福

感でいつぱいである時などには、もち

ろん、私達のみる夢は、悉く美しく、樂

しいものに違ひない。けれども私達が、

失戀の哀しみに沈み、又は、苦しい、惱

み多き人生を生き耐江てゆかねばなら

ない時には、幻に描くその夢も、はかな

い悲しみに啜り泣く、きはめて淋しい

ものにちがひないのである。

◇だが私達の夢は妙なものである。そ

んなみぢめな時にあつてさへ、夢だけ

は、ほんの刹那ではあるが、明るい、喜

ばしい未來の、自分の姿を夢みること

があるからである。淋しい人生の黄昏

の中に血みどろにもがき乍らも、私達

が危く、自殺からまぬかれてゐるとい

ふのも、私達に、はかない希望を抱くこ

との出來る、この夢がゆるされてゐる

からではあるまいか。

◇藝術としての活動寫眞――もとより

それは、一つの夢である。私が今まで好

んでみてきた映畫を思ひ出しても、そ

れらは悉く夢にはじまつて、夢のまゝ

で進み、夢で結ばれてゐる。そしてその

夢が又、恐ろしく、コスモポリタンなも

のであるから、たとひある映畫が、米國

でつくられたとしても、伊太利や獨乙

でつくられたものでも、私達は一國の

習慣や風土や人種の相異にさまたげら

れるやうなことなしに、そこにたゞ一

人々々が描く夢のなかにひきこまれて

しまふのである。

◇そして又、この夢といふものが、决

して單純なものばかりではない。一人

の男が或ることを夢みるとすれば、そ

れはぐん/″\伸びてゆく、そしてその

一つがお終になりさうになると、又更

らに、別な方へ進んでゆくのである。

おまけに、それが思ひ掛けないところ

へひろがつて、B、C、D、といふ男や

女の生活にまでをかしてゆくのである

すると又、B、C、Dは自分々々に、みな

ゆめを持つてゐるから、それが恐らく、

始めの人の考へてもゐなかつたところ

へまで反影してゆくのである。

◇こういふ風に私達のゆめは、どこで

終るが、すこしも見當がつかないもの

である。たとひ或る一つのゆめが、う

まく實現されたとしても、それと同時

に私達は、別な、新らしいことをゆめみ

るといふ風なのである。まあこんなこ

とをひつくるめて、私達は、普通に運命

だと云つてゐるやうである。

◇どころで、活動寫眞は、このゆめ多き

私達に、更らに、いろ/\な人達のゆめ

を織りこんでみせてくれるものである

私達は映畫だけの持つ、特別なゆめ氣

分につゝまれ乍ら、ゆめそのものであ

る映畫に、心ゆくばかり耽溺する。

◇さて、ダビット、ワーク、グリフ

井スは、彼のダイレクトした映畫

に「夢の街」といふ題をかぶせてゐ

る。私はこれは素敵なものにちが

ひあるまいと思つて、或る日曜日

に、わざ/″\目黒まで出掛けてみ

た。ほんたうのところ私はグリフ

井スの作品は餘りみてゐないので

ある。「東への道」や「散りゆく花」

や「愛の花」などといふ、有名なも

のさへみてゐないのである。私は

「嵐の孤兒」とこの「夢の街」をみた

ゞけである。だから私はまだグリ

フ井スについて何も知らないと同

じわけなのである。それだのに私

はグリフ井スが忘れられない。な

つかしいやうな氣さへする。

◇何故だらう――それは彼が、私

達の夢み心地をよく理解してゐる

からである。彼の好んで製作する

ものはさう大して深く吾々の胸を

ゑぐるといふものはないやうであ

る。けれども、彼は人生の一面のみ

を語るやうな作品をつくる人では

ない。彼の作品には、まづ、夜霧の

なかにぼかされたともしびのやうな、な

つかしい陰影の美しさと靜けさと

がある。心をそゝらずにはおかな

い、心地よいユーモアと、温雅な

メロディが流れてゐる。そして、猶

ほ、その中に、人生の淋しさや悲

哀をも織りまぜるといふ風に――

勿論、それは脚本によるのでもあ

るけれど――そこに、さま/″\な

人生の行路が、音樂的な、繪畫的

な、詩をふくんで、私達の前をと

ほりすぎてゆくのである。すくな

くとも私達の夢心地をきづつけな

いだけの作品を彼はつくることが

出來る。

◇なるほど、私の友達の或る男が

云ふやうに、彼には、セシル、ドミ

ユーほど、つきつめた深さはない

けれど、それだけ彼の持つ世界は

明るいのである。その明るさも、

たゞのはしやぎ氣分ではない。彼

は十分に藝術的な映畫をつくる才

能を持つてゐる。彼は役者をつか

ふことが、巧みであるし、又、彼

の映畫の撮影者も、よく彼の藝術

味を理解してゐるのだらうが、彼

のつくる映畫には、渾然とした、

いはゞ、紫水晶のやうな感じのす

る美しさがあることも見逃しては

ならない。クローズアップにして

も、彼の作品だけはことに魅力に

みちたものである。

◇「夢の街」は、以上の私の彼に對

する讃美を、ことごとく示してゐ

るといつてもいゝものである。星

の白くきら/\してゐる蒼空の繪

カロル、デムプスターの美しい表

情、夢みる人多く、そして又現實

の人生の苦しさや淋しさに泣く人

の群り住んでゐる、頽癈的な、或

る裏街の描寫――「夢の街」に描き

出されてゐる、すぐれた繪は、こ

れだけではない。夢みつゝ生きて

ゆく二人の孤兒の夢は、いくたび

も破られながらも終に、自分達の

夢をしつかりと現實につかむので

ある。「夢の街」或は「夢を抱く人々

の街」といつた方が、もつと、ふさ

はしい、グリフ井スの映畫は、私

の忘れがたいものゝ一つとなつた

のである。   (十二年十一月稿)


(越後タイムス 大正十二年十二月二日 
      第六百二十七號 六面より)




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ソフィアセンター 柏崎市立図書館 所蔵





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