晩秋雲脚記 (下)
晩秋雲脚記(下) 夜光詩社 草川 義英
悲しげにまたなつかしく波にうきうれい
もなげに吾が船のいづ
海鳥のうけるも小さししづやけき秋の夕
を悲しみてなく
火にも江てかぎらう□づく陽のごとく雲
の走せゆく/\へしれずに
奈良の暮れ路に
土の匂もとろける如き夕の森に朱に黑に
浮彫きれし春日を拜せし時、三々伍々に群
れて絕江ず行人を恍惚たらしめし神鹿の床
しき眼を見入りたりし時、秋月の森をざわ
/\と渡るが聞江ぬ、猿澤の池の哀話を
知り、遥か錦繪の如く空に映れる五重塔を
見たる時、あゝ三笠は見江ぬ、雨霽れの薄
き靑磁色の空に一入鮮に浮き出されし三
笠の山の夜に出でし月をいかで古人の心醉
せずに置しものか、若草は陽炎のたゝんば
かり綠に、晩秋の夕陽は雲にかくれて、雲
南へと走、南へは□、しぬ (完)
(函館毎日新聞 大正六年十二月五日 四日夕刊
第一万一千六百十五號 一面より)
※本文中2箇所判読不明文字があります。マイクロが不鮮明なのかと
考え、函館市立図書館のレファレンス担当のOさんにお願いして
原本を確認していただきましたが、原本自体の印刷がつぶれている
ため判読できませんでした。おわかりになるかたがいらっしゃいま
したらコメントお願いします。
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※草川義英は與志夫の函館商業学校時代のペンネーム、同学校の生徒
を中心に結成された夜光詩社という短歌クラブに所属していた。
※[解説]夜光詩社について
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