蒼白い情熱の墓
◇つめたい理智だけでながめるに
は餘りに人間生活は深い。神秘で
ある。私は、人間と人間とのあひ
だにまつはる愛慾のきづなに、か
ぎりない不思議な矛盾となつかし
さとを感じる。愛慾の世界にちょ
つとでも理智がのぞくと、すぐさ
ま、矛盾がまざ/\とみ江てくる、
さうかといつてほしいまゝな情熱
にひきづられてゆくと、人生はか
たときの夢となつて消江うせてし
まふ。
◇いづれにしても人生のおほかた
をしめる愛慾の世界を考へるのは
淋しいことである。底なしの泥沼
――そのはてしのない遠いところ
に自分のねばりづよい、蒼白い情
熱の墓が幻影のやうにみ江る日が
この頃ことに多くなつてきたので
ある。多くの物語や芝居のなかに
そしてまた自分が今住んでゐる世
界のなかに、私はおどろくほどさ
ま/″\な愛慾に生き、愛慾に死ん
でゆく人々のすがたをみいだすと
き、なにものよりも淋しく胸をう
たれるのを感じるのである。
◇人間が生きてゐるかぎり、どん
な淋しい片隅にも愛慾の悲しみ、
愛慾のよろこびのないところはあ
るまい。今ある世界が亡びてあと
にどんな世界が生れやうとも、私
は人間の愛慾からかもされる幻影
が亡びるとは信じられない。人間
の個人生活の内容が變り、社會生
活の基礎が變れば愛慾のあらはれ
る形式はちがつてくるに違ひない
然しそれが本質的に全く別なもの
になるとはどうしても考へられな
いことである。そこに私は今現に
私達の心の奥底に强く根をはつて
ゐる愛慾の永遠性を信じないでゐ
られない。
◇私達のからだの片隅にひそんで
ゐる情慾といふものを考へるとき
私は不思議といふよりほか云ひや
うのない微妙な、私の理智などと
いふ化けものゝ手のとゞかない、
或る力だといふことがわかるだけ
である。所詮その情欲も一つの人
間の手に負へない魔のものであら
う。たとへば私達は冷静な理智で
ものを云ふときに、きまつてプロ
スティテユートの存在を惡るく云
ふ、不合理だといふ、神聖な精神
愛の世界を濁すものだと呪ふ。そ
れだのに私はふとしたはづみに彼
女だちを抱きにとき於りゆくでは
ないか。
◇倉田百三といふ人は、靈と肉と
の二元を說き、靈の愛が肉の愛に
うちかつべきであることを示すた
めに、「父の心配」といふ戯曲を書
いた。彼は肉交の刹那には、靈な
んかなにもなく、たゞ爛れるやう
な肉のかほりのみがある、そんな
ものは卑しいものだといつて、靑
年がその愛人と肉の快樂を貪らう
とする瞬間に、ある戯曲的さま
たげをつくつて、靑年のつきるこ
とのないデザイアをとげさせない
――なるほどそれは倉田氏の純潔
な理想を高調した點では敬服させ
られる、然し私のやうな弱い――
高潔な人はこの弱さを、醜いとい
ふ――人間性をもつ者には、どこ
かほんたうでない、空虚さが感じ
られる。
◇私だつてプロスティテユートに
全的な愛を感じて彼女だちのから
だを買つたためしはない、むしろ
私は娼婦のからだに接するたびに
かつての自分の美しい血が濁つて
ゆき、醜い病氣にかゝるかも知れ
ないことを覺悟しなければならな
いやうな不愉快さを感じる。はじ
めは、もののくさり爛れるやうな
にほひと誘惑とを持つ彼女だちの
生活雰圍氣の淫蕩味だけを貪つて
すませるつもりでゐても、たちま
ち、自分の情慾は、なまぬるい理
智では抑へきれず彼女たちの誘惑
のなかにまきこまれる、それでも
なほ自分の精神は肉慾なぞにまけ
るものかとがんばつてゐるが、そ
れはふくよかな薄團のなかにから
だを横たへ女のくるのを待つてゐ
るあひだゞけのことである。まけ
おしみの强い理智も、女が自分の
からだにぴつたり吸ひついて來る
と、たちまちしびれて了ふ。
◇手を握る、唇を吸ふ、そして遂
に彼女のからだの全部を要求して
了ふ――これまでにさせる力は、
一体何んだらう。理智をまでへこ
ます大きな力は、たゞ動物我とか
獸慾とかいふ骨と肉ばかりのする
仕業だらうか。私ははつきり言葉
では表せないが、それは、ある底し
れない、惱ましいくらゐ銳敏な、
大きな靈と肉との合致した力であ
ると感じる。なるほど倉田氏の云
ふやうに、肉慾をみたす刹那には
たゞ恍惚境だけあつてほか何もの
もないことはたしかだ、しかし、人
間をそこへまでみちびかずにはお
かない力は何んであるか――それ
が大きな疑ひである。
◇私よりすこし年上の友人が或る
晩こんなことを云つた――性慾に
ついては全く個人の自由に任した
らいゝではないか、オナニズムで
神經衰弱にならうと、娼婦を買つ
て病毒に苦しまふと、それは自分
だちの享樂の當然の報酬だと思つ
ていさぎよくうけたらいゝだらう
――とこれは面白い言葉であるが
今のミリタリズムの政府がこんな
ことをきこうものなら、眉を吊り
上げて怒るだらう、その友達の極
端な言葉のうちにはもつと男女の
關係を自由にしろといふ意味がひ
そんでゐる。
◇こんな風で私達若者はどんなと
きでも人間の愛慾の柵をとびだし
てものを考へるわけにはゆかない
谷崎潤一郎氏の藝術がいかに唯美
的であり、惡魔的であり、幻想的
であり、不自然であらうとも、そ
のなかに、血の滲むやうな人間の
愛慾の不思議なきづながまざ/\
と描れてさへゐれば、私はかぎり
なく彼の藝術を愛するものである
愛慾のない生活、情熱のない生活
――そんなものは若い私にとつて
餘りに淋しすぎる、空虚すぎる。
◇チエホフの小說や志賀氏の老人
などといふ作品をよんでも、長い
年月のあひだ、散々生活に疲れは
てた老人が、ひょっとしたはづみ
で出來た戀のために、自分の暗い
人生の黄昏に、ほのかな明るみを
感じて喜ぶさまなどが描れてゐる
ところをみると、愛慾の網はあな
がち若い者だけに張られてゐると
は考へられないのである。
◇蒼白い情熱の墓――その土のな
かに、かつて、どんなに多くの、男
と女の愛、親と子の愛、兄弟の愛、
友人の愛、のために喜び、或は悲
しみ惱んだ人々が埋められたこと
だらう! (十二年四月)
(越後タイムス 大正十二年四月廿二日
第五百九十四號 三面より)
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