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秋 景

 ――このつまらない一篇の散文詩を

   樋渡尚理氏に於くらうと思ふ。

 私の室にひとり寢ころんで、垣

向ふの畑の方をみてゐると、人家

によほど遠い、草ぶかい庵寺の離

室にでもきてゐるやうであくまで

も靜かである。茶の木でつくつた

垣には、のびるまゝに雜草がはび

こつて、そこはいちめん鮮かな靑

いろのかたまりであつた。

 蟋蟀が鳴きだしたのは五日ほど

前からであつた。

 月の明るい晩、いつ下りたとも

なく、しつとりとした夜露に濡れ

た草の葉が、きらきらと光るのを

みてゐるのはすがすがしい氣持の

するものだ。そんな晩はことにさ

まざまな虫のこゑがおほいのだ。夜

が更けてゆくと、人のこゑも跫音あしおと

もた江て、あたりにひゞくものは

たゞ虫と風だけである。秋の夜更

けのわが家は全るで虫を風との世

界である。

 蟋蟀は淋しいものだ。草むらの

土をかみくだき乍らなく。賑かな

街を散歩してゐて、古い家の軒下

から、かほそいこゑをたてゝゐる

のをきくと、身に泌みて寂しい氣

持だ。秋がちかいことをいち早く

語るのは、日が西へかたぶくのが

早くなつたことを感じるからばか

りではない。それは夜空のうつり

かわりと蟋蟀のこゑに氣をとめる

にこしたことはない。

 私は人間の世界の寂しいたより

なさを深く泌じみと感じ乍ら、秋

は月がたかくのぼる頃までも夜を

更かすのであつた。


 未明であつた。うとうととして

ゐると、半鐘の音が雨戶のすきま

から枕にひゞいた。とびおきて椽

の雨戶を一枚くると、西ぞらにう

すい朱いろの、ぼやけた圓光がみ

江た。

 火事はあそこだな――呆んやり

とみつめてゐるうちに冷江び江と

した夜明の風が寢間衣の上からも

それと感じられるほど、水のやう

に室のなかへ流れた。

 さつきの圓光は、いつまでもぼ

かされたまゝであつた。

 もの音に目覺めて起きてきた妹

が「どこですの」ときくので、「あ

そこだ」と指さしてみせると、そ

の方をみた妹はすぐと笑ひだした

「兄さん寢呆けてゐるのね。あ

れは月ぢやありませんか」なるほ

どさう言はれてよくみると、それ

は西ぞらへ落ちかゝつた月であつ

た。

 寢床にはいる前には、あんなに

さわやかな靑白いかたまりであつ

たのに、今は火事とまちがへるほ

ど橙いろに變つてゐる。「月といふ

ものは不思議なものだ」私はさう

ひとりごとを言ひ乍ら雨戶をしめ

た。半鐘の音は枕についてからも

た江なかつた。

「誰だつたかな――「月の出る町」

といふ詩集を書いたのは。さァ、だ

れだつたかな・・・」と、そんなとり

とめもないことを思ひ出しかねて

ゐると、眠つてしまつた。


 やがて毎朝のやうに櫻のわくら

葉が落ちはじめた。

 庭をはくと、カサコソと音をた

てゝ、それだけでも秋らしく寂し

かつた。

 もうまもなく、風物はみな秋の

大氣につゝまれる――そんな頃に

なれば、私も新しいさつぱりと

した着物をきて、郷里の方から妻

もよび、郊外でも散歩したら、す

こしは氣がはればれとするだらう

――私はそんなことをはつきりと

空想して微笑したが、あとはうそ

寒い氣持を覺江た。

     ――九月の或る日――


(越後タイムス 大正十三年十一月九日 
      第六百七十六號 七面より)


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「月の出る町」春山行夫

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