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卓 燈 夜 話 (六)
◎友達のことを書くのは慎まなけ
ればいけないが、この間の消息を
讀むと野瀬市郎君が、わが武蔵野
の一角に家を建てるといふことが
出てゐるので、僕はなにか書きた
い氣持になつた。その家の話がき
まるまでには大分面白いこともあ
るが、それは友達仲間の興味であ
つてこゝへ書くべきことではない
◎僕はまだ彼のゑらんだ土地をみ
ないが、東京市街からは大分離れ
てゐるから靜かな所であらう。彼
の圖面をみると、仲なか巧みな工
夫をこらしたものだ。文學者とし
て生活する彼の趣味が、その一枚
の圖面にさへ躍如してゐる。こ
の上は建築者が、彼の心持をうま
く呑みこんでくれさへすれば、彼
の心づかひも完全に生きるわけだ
◎それが出來あがる頃はもう晩秋
ともいひかねるときだが、何しろ
彼は愉快であらうと思ふ。自分で
設計して自分の金で自分の住家を
建てることは確かに氣持のいゝこ
とである。この春ごろには、彼に
とつてもそれはひとつの空想であ
り、夢であつた。僕もさうであつ
た。然し、今はもう彼には夢では
ない。空想は僕にのみのこされた。
僕は彼の滿足を氣持よく祝福する
一方、甚だ淋しさを感じないわけ
にはゆかないのを恥ぢる。
◎彼の借りた土地は農家の散點す
る百二十坪の畑地である。そこへ
二十數坪の家を建てるのだから、
猶ほ百坪の空地があるわけだ。み
はるかす武蔵野つゞきの百坪の空
地は市街の百坪の感じとは全くち
がふ。そこに春秋夏冬の大氣と野
趣とは、望まずして充ちあふれる
ことであらう。彼の數奇を凝らし
た書齋の窓ぎわを流れる渠は、僕
の郷家を思ひださせ、そして佐藤
春夫氏の「田園の憂欝」の一節を眼
にうかばせるに十分である。
◎新らしい四尺廊下の硝子戸越し
に、しん/\と降りつもる雪の音
に耳を澄まし乍ら冬の夜を更かし
て見給へ。そして、夏の夜は――秋
は――春は――そこには數知れぬ
田園の玲瓏たる風物のにほひと色
合ひとが彼の生活に忍びこむこと
であらう。
◎こういふ文學的情趣をのぞいて
も猶ほ僕が感心するのは、彼に二
人位の子供が出來ても彼らにのび
のびとした氣持を失はさせないや
うにと、考へて設計した彼の理智
の深さである。彼は餘程のことで
も起らなければ、そこで彼の文學
的生涯をおくるつもりであらう。
あの武蔵野一帶が煤煙みなぎる工
塲地にでもならなければ彼はそこ
を逃れる事はあるまいと僕は思ふ
◎新作家の努力に酬いるに吝かな
る日本の文學界は、彼の戸塚の家
で書き上げた短長、十數篇の作品
を未だに歡迎しやうとはしないが
若し彼が新らしい家に落着いて、
猶ほコツコツと文學的制作を倦ま
ないならば、必ず彼の未來は輝か
しく酬いられることであらう。彼
がその新居の愉快さに陶醉して、
制作を讀書とを怠けるやうであれ
ば――即ち僕は友人の一人として
彼が安閑たる風流に日を忘れる老
人となるのをおそれるのみである
◎僕はこれを書き乍ら、野瀬君の
新居の成るを祝ふよりも、それを
羨望する氣持を餘計に覺江たこと
を告白する。これは僕のさもしさ
がさせることだ。僕はこのさもし
い根性をしつぱたき乍ら、野瀬君
を知るあらゆる人々と一しょに、
同君の近い將來を祝ひたいと思ふ
玆で野瀬君萬歳といひたいが、そ
れはどう君の第一著作集が上梓され
る日に譲つて、今日は純粹な心持
で同君の前途を祝はうではないか
◎親愛なる野瀬君!僕は一日も早
く君の新らしい家の疊の上に寢轉
んで君と夜の更けるのを忘れて話
したい。その次ぎには君の妻君に
なる人の顔がみたい。それから君
の小說集が書店の棚に並べられる
のをみたい。そしていちばんお終
ひに、君の百坪の庭で遊び戯れる、
君の子供さんの聲をきゝたい。君
の小說集の出版を、君の妻君のあ
とにしたのは別に他意あるわけで
はない。今の僕には、君の小說が
評判になるのは、君の結婚と同時
か、或はそのあとにちがひないと
いふ、直覺的な氣持がへんにがん
ばつてゐるだけなのだから。
(十月十二日)
(越後タイムス 大正十三年十月十九日
第六百七十三號 二面より)
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