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夢を見失ふ話

白路はくろ――といふ言葉があるが、

どんな意味なのか、私は知らない。

しかし、私は、例の私の病的な直

感で、かん/\する太陽に白く熱

しられた、このごろの都會の街路

を、白路といふ言葉でよびたいの

である。私は毎朝、私の家から、

停車塲ていしゃぢゃうまでの、ほとんど、まつすぐ

に走つてゐる。私の白路を、汗に

まみれながら、銀座にある、勤め

先へ通ふために歩るくのである。

◇ある朝のことである。私は、私

の好きなリンネルの夏服をつけて

やはりこの路を歩るいてゐた。私

とは六尺を隔てない前を、私と同

じやうに、白服をつけた、靑年が、

一人歩るいてゐるだけである。そ

の靑年は私よりはずつと上品な

姿をして、うす藤色の夏手套なつてぶくろをは

め、水牛の角のにぎりのついた、

ステツキを、ふつてゐる。私とその

靑年はやがて、ある大きな庭園の

ある家の塀の下を通りかゝつたの

である。

◇と、なんといふ氣もなしに、ふ

と、私が、その靑年の、ま新らし

い麥稈帽子へ眼をやると、ま綿を

つないだやうな、細いものが、帽

子のふちから、うしろの方へ流れ

て、ひら/\となびいてゐる。き

ら/\と光る。よくみると、それは

一本の蜘蛛の糸である。きつと、塀

の外がはへ葉を茂らせてゐる、栗

の樹にゐた一匹の蜘蛛が、何かの

はづみに、落つこちてきて、靑年

の帽子に、糸をひつかけたまゝ!

どこかへ逃げて了つたのであらう

◇こんなことを考へてゐると、そ

の糸はどうしたわけか、私の眉の

上のへんで、きらつと白く光るの

である。露路のそばを通るときに

すこし冷たい風が私の頬ぺたを、

なでたやうだつだが、そのときに

でも、あふられて、私の麥稈帽子

へりへでも飛びついたのであら

う。私はこれを知ると、これは面

白いぞと、思つて、なるべく、首を

ふり動かさずに、また、前を歩るく

靑年と直線になつて歩るくやうに

そして、きまつた間隔をつくつて

ゆくやうに――そんな風なことを

つとめて意識したのである。

◇しかし私だけが、そんなに氣を

もんでも、向ふの靑年が全くそれ

を知らずにゐるからには、どんな

氣まぐれで彼が、とび上がらないも

のでもない。また、煙草の火をつけ

やうとして立止らないものでもあ

るまい。それに、彼は私といつしょ

に停車場へ行くのか、どうかも知

れたものではない。ひょつと、曲り

角で、曲つて了つたら、折角の私

の氣まぐれな、慰めも、魔術のや

うにこはされて了ふではないか。

◇私はすこし心細くなつて、靑年

に聲をかけて、この面白い遊びを

知らせやうかしらと、なんど、さう

思つたか知れない。が、私の、内氣

な性質は、見知らぬ人に――それ

に、その靑年が、私と同じやうな

趣味を持つて、こんな、つまらな

い、あそびごとを喜んでくれるか

どうかさへ、解つてない人に、い

きなり、呼びかけることなどはど

うしてもできないのである。

◇しかし、その朝は私にとつて、

どんなに幸福な朝だつたらう。靑

年は、最後の曲り道へ行つても、

その方へは曲らずに、やはり、こつ

/\と路をたゝき乍ら歩るいてゆ

くのである。もう、彼が、私と同じ

やうに、停車場へゆくのだといふ

ことは、確かである。私は子供ら

しい喜びを覺江たのである。

◇こうして、私と彼との間は、一

本の蜘蛛の糸につながれたまゝ、

停車塲へはいつていつたのである

改札口で私と彼との間に、一人の

若い美しい女が割りこんできさう

にしてゐる。私は女の後姿をみ

ることが好きな男だから、こんな

とき、すぐ、二三歩しりぞいて、女

をさきにやるのがくせである。そ

のときも、私はさうしたのである。

すると、私の帽子につながつてゐ

た糸は、音もたてずに、ひらりと

ゆれて、どこかへ見江なくなつて

了つた。前をみると、さつきの靑

年は、もう、ブリッヂをわたりきら

うとしてゐる。わたしは、女の印度

更紗模様のさやかな、夏帯に眼を

於としてゐるが、蜘蛛の糸のことは

すつかり忘れ果てゝゐるのである

◇私のものをよんでくれる諸君は

以上の私の話をよんで、へんに思

ふ人もあるだらう、ことに佐藤春

夫を愛する人々は、これはまた、

何んといふ、へんな、佐藤春夫を、

骨抜きにしたやうな、もほうであ

らうとおどろくにちがひない。佐

藤春夫には、「蝗の大旅行」といふ

話がある。私はそれを好んでよん

だ一人ではあるが、私の「夢を見

失ふ話」は、けつして、佐藤春夫の

もほうばかりではないのである。

◇夏のま晝にはよく、路上に、か

げらふのやうな、蜃氣楼が現はれ

るといふ話であるが、この頃のや

うに、暑熱がひどいと、私のやう

な幻想癖に捉はれてゐる男は、朝

からでも、こんな、夢をみては、た

ちまちに、見失つて、それで満足

してゐるやふな、へんな日がつヾ

くのである。恰度、路上蜃氣楼が

現はれると思ふまに、あとかたも

なく消江て了ふやうに。

(一九二三、八、一〇)


(越後タイムス 大正一二年八月十九日 
      第六百十一號 八面 より)


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