この世界のはなし(2)~高次元世界の交差点~
世界を構成する物質の最小単位のひとつとして、量子というものがあります。量子は粒子と波の性質をあわせ持つといいます。このことによって、この世界がとても不確かで、不思議な構造になっていると考えることができます。
同じような考え方で、物質の最小単位は「ひも」であるとする「超ひも理論」というものがあります。超ひも理論の中身については、いろいろと検索していただければ出てくると思います。ここで扱いたいのは、この超ひも理論によると、世界は9~11次元あるということになるという点です。9~11次元の根拠については、こんな動画もあるので、気になる方はどうぞご覧ください。
ところで、9~11次元ある世界とは、いったいどのようなものでしょうか。文字通り、あまりに次元が違いすぎて、もうまったく理解できません。
ということで、まずは、次元というものについて考えてみましょう。
ー1次元:線でできた世界
ー2次元:面でできた世界
ー3次元:空間でできた世界
私たちが住んでいる世界は、一般的に3次元の空間+時間の4次元で構成されていると考えられています。それが11次元???
「次元が違う」などという言い方をしますが、次元が異なってしまうと、低次元の存在には、その高次元のものをまず理解することができません。
私たち3次元あるいは4次元の世界に生きている存在にとって、5次元以上というものを理解するのは、相当に難しいことになります。よく分からないので、少し次元を落として、「次元が違う」ということの意味を考えてみたいと思います。
まずは低次元世界がイメージしてみましょう。
例えば、紙の平面(2次元世界)に線(1次元世界)を書けば、「2次元世界に1次元世界が生まれた」ということになります。空間(3次元世界)に紙の平面(2次元世界)を広げれば、「3次元世界に2次元世界が生まれた」ことになるのは理解できるでしょう。
まずここでのポイントは、高次元世界のなかにある低次元世界は、無数に存在しうるということです。
紙の平面(2次元世界)の上には、たくさんの線(1次元世界)を引くことができます。重なっても構いません。それこそ巨大な紙があって、そこに線を描こうとしたら、いくらでも引けることは容易に想像できます。
大きな空間(3次元世界)があるとして、そこに紙の平面(2次元世界)をどのように置くかはたくさんのパターンが考えられます。紙同士が交差したり、重なっても構わないとしたら、その存在パターンはそれこそ無数です。もちろん、大きさも様々です。
このように無数の2次元世界や3次元世界があるとしたら、それらが重なったり、交わったりすることがあって当然です。
それでは、複数の世界が交差したらどうなるか?を考えてみます。
ある面(2次元世界)とある面(2次元世界)を交差させると線(1次元世界)ができます。
同じようにある物体(3次元世界)とある物体(3次元世界)を交差させると面(2次元)が生まれます。
つまり、高次元世界同士が交差したところには、それぞれの高次元世界に共通する低次元世界ができあがるわけです。できあがった低次元世界は、どちらの高次元世界にも属しています。上図の左側の絵でいうと、面と面が交差していますが、交差したところにできた線(低次元世界)は、どちらの面(高次元世界)にも属している線となります。
私たちは4次元の世界に生きているため、高次元世界を認識することはできません。しかし、超ひも理論で示されているような高次元世界があるとすると、私たちが住んでいるこの4次元世界は、(目で見ることはできませんが)複数の高次元世界の交差点にあるかもしれないと言えるわけです。
ここで高次元について、少し考えてみてください。高次元世界とは何でしょうか?
ひとつ考えられるのが精神世界や意識の世界です。私たち一人一人には、精神が宿っています。私たちは精神を直接見ることはできませんが、何かしらの世界があることを知っています。仮に世界中に生きている人々が、それぞれの高次元である精神世界を持っていたとしたら、今、私たちが目の前にしている4次元世界は、そうした無数の高次元世界の交差点なのかもしれません。
「無我の境地」などと言うことがあります。これは自分のエゴや雑念を振り払うことだといいます。自らの精神世界を世界中の人々の精神世界と重ね合わせることで、さらに最適な「高次元の交差点」を探る作業なのではないでかとも考えられます。
エゴや雑念を捨て去ることで得られる直観や悟りのようなものが得られる・・・それは自我と全体を一致させることで、自分の精神世界のなかにある「交差点」を見出すことで、「自分が為すべきことを知る」行為なのだと思います。
高次元や精神世界。そんなものは、所詮「見えないもの」と思われるでしょうか。しかし、それはただの空想ではないのです。最先端の科学でも、高次元世界があるという仮説が存在する以上、3次元あるいは4次元世界に住んでいる私たちが視認できない、(より高次元の)未確認の世界があると考えること自体は、誰にも否定できません。
ただ、私はスピリチュアル世界とかはよくわかりません。そちら系の話を聞いても、よくピンとこないことの方が多いです。ただし、それらの感覚や感性を否定することもできません。それらを非科学的と切り捨てるのではなく、科学が究明しきれていない部分を表しているかもしれないと考えると、おいそれと頭ごなしに否定することもできないわけです。
こうして考えてみると、目に見えるものしか信じないという「唯物論」というものが、低次元な概念にみえてきます。同時にそうした「唯物史観」で成り立っている共産主義に負ける気はしません。
このあたりの話は、いろいろと複雑な話にもなりそうなので、また今後も機会をみて、取り上げてみたいと思います。
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