明確な「宗教観」を持ってみよう
私は特定の宗教を支持していません。そういう意味では無宗教です。しかし、唯物論者でもありません。むしろ、高次元世界なるものは存在すると思っています。
「スピリチュアル系」という表現があります。私がこれにあたるように見える方もいらっしゃるかもしれません。そもそも、その言葉の定義もはっきりしないため、何とも言えません。ただ、私自身、当たり前のことしか言っていないはずです。
そもそも、今の科学の最先端においても、高次元世界の可能性は指摘されています。否定できないのです。
だからこそ、こんな話が上映されたりするわけです。
そこで、高次元世界とは何ぞ?と聞かれたら、私たちの精神世界こそが、それに該当しうるというまでであり、ひとつの仮説として、唯物史観的な世界よりも高い次元に、私たちひとりひとりの精神が存在しているということです。
何も変なことは言っていません。当たり前のことです。
こんな当たり前のことを言っているだけなので、それをもってして「スピリチュアル系」に分類されるべきなのかが、いまいちよく分かりません。
宇宙の真理を読み解くには、目に見えるかたちとなって証明された科学だけではなく、目に見えないながらも「ある」と考えられる宗教の世界、その両方が必要だと思われるのです。
ここでいう後者の宗教の世界は、「宗教観」と呼ぶこともできます。私自身、「スピリチュアル系」という括りよりも、「宗教観がある」という言い方の方がしっくりきます。
用語の問題はさておき、「宗教観」を語るのに、特定の宗教に属する必要性はありません。広く宗教が扱うような「見えない世界」に対して、どのように捉えるかという見方があればよいだけです。「宗教観」は、誰にでも持ちえます。
そして私は、そのように「宗教観」をもつことが、唯物史観的な思考、世界観を越えるカギになると考えています。
グローバリズムやら、世界共産化やらが進行していく中、「彼ら」が最も嫌がるのは、そうした高次元の「宗教観」です。「彼ら」は目に見えるお金の力で、人々の物欲をコントロールしながら、「彼ら」が思うような世界を作り上げていくことができます。
しかし、物欲に惑わされない人々の「宗教観」は御しえません。
しかも、その高次元の「宗教観」が、現実の世界(低次元世界)に影響を及ぼすものであることを知っていたら、ますます厄介だと考えるはずです。
※あくまで私見ながら、今でこそ「イベルメクチン」のようなものが、情報統制の標的となっていますが、10年後、20年後には、この類の話が規制の対象になる可能性すらあるのではないかと思っています。
大事なことなので、あらためて強調しておきますが、科学は大事ですし、目に見える世界を無視してはいけません。
物理法則などの自然科学はもちろんのこと、現在の社会システムや世界情勢、歴史をはじめとした社会科学を抜きにして、「スピリチュアル系」に走って、ただ「世の中がよくなる」などと念じるだけでは不十分だと考えます。
大切なのは、両方のアプローチを同時に持つということです。
目に見える世界には、しっかり目を向けましょう。そのうえで、目に見えない世界のことも考えてみましょう。
今回、「宗教観」という言葉を使いましたが、私は、今日に至って、むしろ特定の宗教は必要ないのではないかと思っています。これまでの歴史の中で、宗教が必要とされていたのは、人類が手に入れるべき「宗教観」にたどり着くまでの補助輪のようなものだったからだと思えてなりません。
これからの時代、本来手に入れるべき「宗教観」に辿り着き、人類一人一人が、それぞれ「自分自身が神様だ」と思えるくらいになってもいいのではないかと思うのです。上掲記事にもある通り、その言葉の裏には、一人一人が「高いプライド」、「他者への敬意」、「「この宇宙へ」の慈愛」を持つべきことは言うまでもありません。
そして、そんなふうに考えたら、特定の宗教なんて必要がないのは自明です。
てなわけで、多少時間がかかっても、何となくでもなく、ぼんやりでもなく、ある程度明確に「宗教観」なるものを持ってみてはどうかと思うのでした。
蛇足ですが、こんなのが出ていました。
海外の状況をみてたら、こんなことがすんなり通ってしまう日本の可笑しさったらありません(笑)。
怒りたくなります?!
いやいや。茶番なんですから、いいじゃないですか。
怒ったところで、何も変わりはしません。この人たちも、全部知っててやってます。止めようもないです。私たちができることといったら、せいぜいSNSに意見を投稿するくらいでしょう。それくらいで十分です。
そうした現実から目を背けるでもなく、私たちは私たちで、それらを知ったうえで、「宗教観」を育てていきましょう。それが結局のところ、世界を良くするための近道のように思います。
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