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立派な親分になってみましょ

筋(道理)に沿った生き方をしていれば、自ずと道は開けてくるものです。自分という「個」の存在が、大自然(宇宙)の一部であることを考えたら、それは極めて当然のことといえます。

そんななか、「あれ?自分の筋(道理)は間違っているんだっけ?」と感じたとき、私はこのドラマをみることにしています。

ヤクザのお話です。

ヤクザの話なんて、一見、自分たちの世界とは縁遠いように感じられるかもしれません。しかし、筋論の話としては、とても興味深いものがあります。

主人公の氷室蓮司は、けっして力技で抗争を勝ち上がっていくのではありません。ヤクザ同士の争いのストーリーなので、「力 vs 力」のようなイメージがあるかもしれませが、違うのです。筋論が厳しいヤクザの世界で、道理(筋)を通していくことで、ドンドンと力をつけ、のし上がっていくのです。

この生き方は、どの世界にも通じるものだと思います。

したがって、成功の秘訣として、宇宙の摂理を考えることが重要となるのであり、無我の境地などに接して、自分と自然(宇宙・全体)を一体化させることが、カギになるというわけです。いわば、策を張り巡らせる「策士」ではなく、道理に沿って生きる「道理士」になるのが肝要ということです。

「策士ではなく道理士たれ」より引用

こうした視点に立ってみると、主人公・氷室がヤクザの世界でのし上がっていく様子は、とても納得がいきます

ただし、所詮ヤクザ映画です。この人たちの生き方が、自分たちにとって望ましい生き方なのかというと、必ずしもそうではありません。その理由は簡単です。それは、ヤクザの世界が歪んでいたり、狭小だったりするからです。

「自分はヤクザになりたい!」なんて思う人は少数派でしょう。したがって、大部分の人にとって「ヤクザの世界が歪んでる」などということは当たり前すぎて、議論の余地がないのです。

しかし、そんなことは分かり切っているなどと言って、切り捨てるわけにもいきません

何故ならば、自分がみている世界が歪んでいたり、狭小だったりするケースは、あちこちに転がっているからです。それらは今、自分が所属している社会のひとつひとつに表れています

例えば、ほとんどの人々が、所属することが当たり前だと信じてやまない国家にしたって、だいぶ怪しいものです。

そう、むしろ逆です。個人が集まって、その集まった結果として国家があるだけです。そこに主従関係があるとしたら、どちらが「主」で、どちらが「従」であるかは言うまでもありません。個人が「主」に決まっています。
そうした主従関係を踏まえたとき、国家が、個人が生きるために必要な自由の権利を奪うなどということは、あってはなりません。ましてや、その大義名分が「あの茶番」だなんて、もってのほかです。

「国家の前に個人あり」より引用

ちょっと過激な言い方になるかもしれませんが、見方によっては、究極のインテリ・ヤクザが作ったものこそが、国家や政府といった仕組みであるとも言えます。そう考えたら、そんなものに所属することを前提にした「筋」なんてものは、私たちが後生大事に守っていくべきものでないことは自明です。

ただし、人間という生き物は、難しく生きてしまいがちです。知らず知らずのうちに、「本筋」でもないものを筋だと思い込んで、自分を苦しめていたりします

こうするべきだ!

こう思うことは、よくあります。それはそれで、自分なりの筋です。

しかし、「本筋」ではない(宇宙の道理ではない)ものに沿って生きようとすると、いろいろと苦しめられたりするわけです。ストレスだらけになります。それって大丈夫?って話です。

そんなふうに自分たちが気付かないうちに、自ら「狭小な世界」、「歪んだ筋」に閉じ込めてしまっていたら、いつまで経っても、道は開かれていきません

では、どうするか?

この動画には、そうした問題を解いていくヒントが、たくさん詰まっていると思います。

このなかで、とくに私は、体への意識がポイントだと考えます。

次は、右脳の方がめっちゃ縄文時代とかなんで、体の神経と超つながってるんですよ。左脳は、ここ(首)で切れてて、ここ(頭)だけで好き勝手したいんですよ。体とかにいろいろ言われたくない感じ。だから、体の感じを感じようとしないんですよ。
(中略)
右脳に繋がるために体の方は体の方へ意識を降ろしていく

自分の肉体や細胞も、自然の一部です。

宇宙の道理(筋)にしたがって考えれば、彼ら(肉体や細胞)のために思考し、行動することが本筋であると言えます。だから、自分の体や細胞に耳を傾けて、彼らが喜ぶことをたくさんすることこそが、宇宙の道理であり、本筋だということです。

難しいことではありません

ただそういう意識で、一度、自分の体を見回ってみるのです。一通り、頭のてっぺんからつま先まで、外皮から内側に至るまでの自分の細胞に意識を向けて、様子をみていく感じです。

調子はどうよ?元気にしてる?

冒頭のヤクザ映画風に考えるならば、親分が子分に気遣って、声をかけてやるようなイメージです。自分の細胞は、他の誰でもない自分のものです。自分以上に、彼ら(自分の細胞)に声をかけられる人はいないはずです。

道理(筋)に沿って生きていくなどということは、そんなに難しいことではなく、ただ単純に、自分の肉体や細胞に慈愛の念を抱き、彼らに声がけをしていくということだけかもしれません。

それだけで道が開けると思ったら、超簡単です。まぁ、ちょっと試しにやってみてはいかがでしょう。

自分の肉体・細胞にとってくらいだったら、立派な親分にもなれるでしょ?


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