「英語ができない」という強み
私は英語ができません。からっきしダメです。したがって、学生時代は苦労しました。社会人になって以降も、何とかそれを克服しなければならないと思い、それなりに努力をした時期もありました。でも、全く頭に入りません。今では、完全に諦めています。
いや、諦めているというのは正確ではありません。英語ができないということを、むしろ強みにしていこうと思っています。
したがって先日も、とある仕事の関係者から「英語を勉強してくれ」と依頼されましたが、「絶対にしない」とキッパリとお断りをさせていただきました。
多くの人々は、できることを強みと思いがちです。また、持っていることにメリットがあると思い込んでいます。しかし、考えようによっては、できないことが強みになりうるし、持っていないことの方がメリットになったりすることがあるのです。
例えば、記憶力などというのが、そのうちのひとつです。
記憶力がよいというのは、間違いなくひとつの大きな武器です。したがって、それを使わない手はありません。
しかし、そうかといって記憶力が悪い(忘却力が優れている)ことが劣っていることを意味するかというと、必ずしもそうとも言い切れないということを、同時に理解しておく必要があります。
お金にしたって同じです。たくさんの資産がある人々は、裕福に暮らしていそうですが、実際のところ、資産運用などで相当苦労しています。さらに、これからの時代、大きく社会システムが変化するかもしれないという状況になってきたら、それらを動かして、資産を安全なかたちで保全するというのは、非常に大変です。
変化の時代においては、資産が少なくて、身軽に動ける人の方が、大きな損失を被らず、逆にチャンスを掴める可能性が高いといえるかもしれません。
私の場合には、国語力も同じだと考えています。私の文章は、比較的平易で、難しくないように思います。その原因は、国語が大の苦手だからです。
中学受験のとき、算数は得意でしたが、それとは対照的に、国語はいつも点数が良くありませんでした。そんな私だからこそ、自分でも分かる文章にしようとすると、自ずと平易で、難しくない文章になるわけです。それは、国語力の低さゆえに生み出されるメリットともいえます。
あ・・・横道に逸れてしまいました。英語の話でした。英語ができないメリットって何?って話です。
それは、日本的な思想や思考法に集中できるということです。
日本的な思想や思考法に関しては、いろいろなことが論じられると思います。そのひとつが、例えば、こういうことだったりします。
今回、日本的思想や思考法の中身については、深入りしません。
いずれにしても、言語と思考というのは、非常に密接にリンクしていると言われています。研究によっては、使う言語によって、世界の見え方すら違ってくるということまで言われているのです。
思い起こしてみると、英語を勉強していて、どうしてもついていけなかったのが、あの英語独特の言い回しでした。語順が違うだけでなく、何かまどろっこしいような言い方をされていて、結局、何が言いたいんだ?とワケが分からなくなることが、よくありました。逆に、自分が(日本語で思考して)言いたいことを英語にしようとすると、まともな英語になってくれず、その結果、「英語=ワケわからん」となってしまい、ほぼ学習を放棄することになったのでした。
※したがって、語順と言い回しが、日本語と似ている韓国語はバッチリでした。
今では、私は英語を話せない日本語話者として、日本的思想や思考法に特化することこそが、自らの強みであると認識し、それに注力することにしています。
ところで、私の母校である慶應義塾を創立した福沢諭吉は、幕末の時代、それまで勉強してきたオランダ語が通じないことに衝撃を受け、その後、必死に英語を勉強して、慶應義塾を作り、日本の近代化に貢献したと言われています。
そう考えたら、私なんぞは、慶應義塾の精神に鑑みて、出来損ないの落ちこぼれでしかありません。我ながら、本当にそう思います。コンプレックスをもってもおかしくない状況です。
しかし、それこそが強みなのです。
だから敢えて、慶應義塾の限界にも言及します。いい子ちゃんの優等生には難しいと思います。
ただ実際、英語ができないと大変じゃないか、という心配の声もあるかと思います。ビジネスでは、英語が有利だと言われています。世界の動きを知るためには、英語で情報を入手していかないと話にならないという人もいます。
分かります。
ただし、このあたりについては、帰国子女を含めて、私の周りにはバリバリに動ける人たちがいてくれて、常に私をサポートしてくれています。必要な情報は、常に遅滞なく彼らから届けられますし、必要な仕事は、彼らが問題なくこなしてくれます。
結局、言語などというのは、あくまでもツールでしかありません。もっとも重要な中身の部分は、言語そのものには宿りません。
したがって、例えばビジネスでの交渉で、こちらが判断に必要な情報は、相手がきちんと分かるように提供してくれます。相手の言語が英語であれば、通訳がポイントを整理して、日本語で伝えてくれます。とくに相手が、私の判断や決裁を必要としているとなったら、それこそ丁寧に説明してくれます。私は、その整理されたポイントを元に、判断を下せばいいだけです。逆もまた然りで、難しいことではありません。
交渉にしても、ややこしいことを言う必要はありません。本質を見据えながら交渉をする場合、確認すべきポイントは決まっていますし、条件はシンプルになるため、それほど多くの言葉を交わす必要はないのです。細かいことは、英語話者同士が進めてくれます。確認が必要になったら、「こう言ってるんだけど、どう答えればいい?」と日本語で確認してくれるので、さしたる問題にはなりません。
※逆に「英語ができる人=仕事ができる人」と思い込み、判断を任せて、失敗してしまう組織の事例は、ごまんとあると思います。
ただし、そうした仕事の進め方をするうえで、絶対に忘れてはいけないことがあります。それは、英語ができる日本語話者との連携です。要するにチームプレー、役割分担が大切なのです。
したがって、私がここで申し述べたいのは、「英語なんて要らない!」ではありません。英語も大切です。英語が得意な人は、それはそれで役割があるし、それを大いに活用した方がいいです。その能力を磨いていくことも必要でしょう。
しかし、一所懸命やっても、どうしてもそれができないというのなら、それをネガティブにのみ考える必要はないということです。
「できない」ことには、それなりの意味があります。その「できない」という事実をポジティブに捉える見方はあるのです。そのためにすべきことは、端的にはこのふたつです。
1.自分しかできない仕事をする
-例えば英語ができないのなら、その分、別の能力を磨く
※そうした自分の能力を評価してくれる環境に身を置くことも重要
2.周囲の(いろいろな得意分野を持つ)人たちと上手に連携をとる
-他者の存在に感謝し、快く協力を得られる関係を構築する
さぁ・・・どうでしょう。しっくりくるでしょうか。
まだしっくりこない人は、目の前の事実について、今一度、違う見方を心がけてみてください。モノの見方なんて、いくらでもあるのです。ひょんなことから、気づきがあるかもしれません。