人間について考えてみる(1) 〜自由意志〜
人間は自由であり得るのか?自由意志(Free will)は存在するのか?これは昔から人類が考えてきた大きな問いの一つです。自分の心は自分のものなのか、自分とはいったい何者なのか、そんな疑問を持つとまずこのあたりの議論に迷い込みます。例えば、私たちProject Oliveは感性や感情を主題としており、感情をテクノロジーで測れるのか、どのように干渉できるのか、そんなことを考えているわけです。そうすると「そもそも感情ってなんだっけ」と考えないといけない状況に直面します。もちろん、エンジニアリングやデータサイエンスの観点からは、この問題は回避したい超難問です。でも、多くのエンジニアがこの問題を真面目に取り合わなかった結果、結局は表面的な議論になっているのが現実のように思えます。
感情やココロと自由意志の繋がりはこの記事だけでは見えてこないかもしれませんが、個人的にものすごく重要なトピックなので、記事にしました。最近、岩波書店から名著精選心の謎から心の科学へという面白いシリーズが出ており、その中から自由意志の巻を参考にしています。デネットやサールの本を自力で読もうとすると挫折するので、この本は入門にはいいのではないでしょうか。
決定論と自由意志は両立する(両立論)
さて、いきなりですが本題に入ります。この世界が物理法則や、もしかしたら未発見の法則に従っているという考えを決定論と言います。例えば、古典力学を思い浮かべるとわかりやすいです。ボールを投げれば、投げたときの位置と状態(速度)からニュートン力学に従った仕方でボールの行末は全て決まります。もちろん、空気抵抗やボールの歪み、ボールが落ちた先の地面の凹凸、膨大な要素が影響していますが、これらを人間が知ることができるかは関係ありません。全ては、その瞬間に存在する全てのものの位置と状態で、その後の動きが決まってしまうからです。予測可能性ではなく、他の可能性を含む余地がないといったことがポイントです。
このような決定論的世界の中で、あり得そうな自由とはなにか。それは、行為者本人がしたいと思ったことを「妨害」なしに実行できることで、その一連の過程そのものは決定論的であっても構わないような自由です。例えば、あなたがジュースを飲みたいという欲求を持ったとき、それを誰かに邪魔されたりせず、ジュースにありつければそれは自由であるということです。なので、婚姻の自由や、言論の自由、職業選択の自由といったものもこの範疇になります。このように決定論と自由意志が両立するという考えが、両立論です。ここで、全て決まっているなら、ジュースを飲みたいというその欲求がわくことだって既に決まっていたのではないか、と反論が出るかもしれません。その疑問はその通りで、決定論の世界観では思考の内容すらも過去からの一連の決まった過程になります。重要なのは妨害されなかったという事実であり、この欲求(つまり意思)自体が物理法則やなんらかの法則から自由であったかどうかは論点にしていないということです。
もちろん、物理的法則の支配下で「意思することの自由」が可能であることを話題にすることもあります。例えば、物理世界以外の精神世界があるような世界観です。「我思うゆえに我あり(Cogito, ergo sum)」で有名なデカルトの時代の世界観はこのようなものだったと思います。現に彼は身体と精神の二元論を主張しており、松果体を通して精神と身体が交わるような説明をしています。もちろんこのようなことを完全に否定することはできませんが、現代の物理学や神経生理学が突きつける多くの証拠はこれらの立場を弱くしていると考えられています。それに、これは精神的な世界を仮定していますが、その世界がなんらかの非物理的な法則に従っていたとしたら、結局はその法則下で決定的論となってしまいます。....難しくなってきました。この話は形而上学的な議論に突入してしまうので、電気工学や物理学がバックグランドの私としては直感的に受け入れ難く、強く否定するわけではないのですが、今回は取り合わないことにします。
また、「量子力学があるから完全に決定論的ではないんじゃないか?」という意見もあります。つまり量子は確率的な振る舞いをするというコペンハーゲン解釈(シュレディンガーの猫というコペンハーゲン解釈への皮肉が有名です)の導入です。ただ、ここで重要なのは、世界は部分的に確率的に振る舞っていて、確かに未来が初期から決定づけられていないのだけれど、結局は物理的実態と、それらの相互作用としての世界が作り出した結果としての人間であるしかなく、その欲求や意思がどこか物理的な世界の外から来たりするということではないという点では、先の議論と概ね同じような主張になると言えます。先ほどの議論と同じで、湧いてきた欲求に対して、それを邪魔されないようなことが可能性として残っているならば、人間は自由だと言うことになります。
決定論と自由は両立しない(非両立論)
さて、もう一つの大きな立場に非両立論があります。これは、決定論的世界では自由意志は存在しない、というものです。非両立論でいう自由とは、未来のいくつもの可能性の一つを自ら選んで現実化させる自由です。この意味での自由をリバタリアン的自由と言います。一般の人が思う自由は、この意味での自由なのではないでしょうか。真の自由という感じがしますよね。ただし、これを擁護するのはかなり難しいのが現実です。だって、大局的な法則の中に人間は埋め込まれていて、そのなかで精神だけが独立している、と考えるのはいささか強引な感じがします。人間に自由は存在しないと考えると少し寂しい気持ちになります。これを形而上学的なものに訴えず、きれいに擁護できる論が出てきてくれると救われた気持ちになりそうです。
非決定論的世界での自由
ここまでは、この世界が決定論的であるような書き方をしました。しかし、もし世界が決定論的でなかったとしても、両立論者の言う自由は保証されると考えられています。あくまで、湧いてきた欲求に対して、両立論的自由(邪魔されずに実行)があり得るのであれば、その意味で人間は自由であり得ることになります。一方で、非両立論の世界観では決定論的であるか否かは重要です。非両立論者にとって、世界が非決定的なものであるならば、そこにはリバタリアン的自由(自分で選ぶことができる自由)が成り立つ可能性が浮上してきます。そのようなリバタリアン的自由はありえると考えるのが、リバタリアンと呼ばれる人々です。
おわりに
さて、これで自由意志の議論がなんであるかのエッセンスが少しわかった気がしてきました。そもそも何をもって人間は自由であるとするのかが人によって違うので、意見が食い違ったりしています。それに加えて、この世界は決定論的である、決定論的でないという話になってくるので、まさにカオスな状況です。今回は長くなってしまったので、自由意志とは何か、人間が自由であるとは何かという問題提起を紹介するに留めますが、感情など別の話との連結もあるので、追々各論的な部分も記事にしようと思います。
それにしても、「人間は特別であり機械とは違う」「物理法則を超越する」と多くの人が暗黙のうちに考えているような気がします。宗教的なものを否定している人たちでさえ。物理や数学を学び、この世界が一つの法則に則っていると思っている科学者だってそうです。気づかないうちに神秘主義的なものが入り込んできます。ある意味で素朴な人間観だとは思いますが、科学的世界観との相性が悪く、整合性の取れない主張をしていることに気づいていません。どうしても主観的な自分の独立性みたいなものを信じて、それは科学的な法則の外にあると思っている節があります。ここで、特定の立場を擁護する意図はなく、どの立場を採るにしても、統一した世界観と話の整合性は必要だよねという話です。自由意志の話題は世界をどのような目で見ているかのバイアスに気づくためと言う視点でも興味深い話題だと思います。