【レビュー】『竜送りのイサギ』〜「生きづらさ」の向こう側へ〜
1. はじめに
2025年になりました。20年代も中盤で早いものです・・・
2024年もいろんな素晴らしいマンガが世に出ました。1年を締めくくる代表的なマンガ賞レースである「このマンガがすごい!」では、「ジャンプ+」連載『ふつうの軽音部』が貫禄のオトコ編2位にランクインする一方、年明け発表の「マンガ大賞」を受賞した『君と宇宙を歩くために』が、続けてここでもオトコ編1位を獲得。マンガ好きに強く愛される作品であることが示された結果となりました。
一方で、オンナ編ではよしながふみ先生の連作短編集『環と周』が1位を獲得。オンナ編は2年連続の短編集による受賞となり、新たな傾向を感じさせる結果になっています。
個人的な印象を言いますと、今年の「このマンガがすごい!」は特に「生きづらさ」、あるいは「『普通』でないこと」の価値がものすごく重視されたラインナップになったなと感じています。上記の『君と宇宙を歩くために』は、神経発達症やグレーゾーンと思われる高校生らが、「普通にできるはずのことができない」苦しみに苛まれながらも、お互いあるいは周囲からの支えを受けて前に進んでいくお話です。オトコ編3位の『どくだみの花咲くころ』もこれと少し似たような側面があるかもしれません。
また、そうした生来的な特質による生きづらさだけでなく、社会的な抑圧への抵抗やこれとの折り合いを描いた作品として、オトコ編5位『路傍のフジイ』、同8位『この世には戦う価値がある』が挙げられるでしょうし、フェミニズムの視点を取り入れた作品が2年ほど前から目立っているオンナ編では、今年も性愛や結婚を当たり前とする価値観に鋭く疑問が投げかける7位『スルーロマンス』、あるいは(こちらは個人的に未読で恐縮ですが)同テーマの作品として3位『ボールアンドチェイン』などがランクインしています。生きていくことが困難になっているこの社会で、どのようにして自分なりの幸せをなんとか見出していくか。それが、少なくともマンガ好きの人たちの中では、なんとなくの共通の心象風景になっているのかもしれません。
そんな潮流の中で、次の「2025年のマンガ」として私が一番推したい作品が、小学館マンガアプリ「サンデーうぇぶり」で連載の『竜送りのイサギ』(2024年末時点で第3巻まで刊行)です。
この作品が描くのは、江戸時代の日本に似た世界で、処刑人として罪人の首を切る仕事をしているイサギという少年。かつて日本において、極刑の執行は場合によっては汚れ仕事とされ、これに携わる者の一部が被差別身分であったことはよく知られた話ですが、本作で描かれるイサギの立場もこれに準じています。だから、この作品は少なくとも一側面としては、イサギの「生きづらさ」を描く作品ではある。しかしながら、この作品はその「生きづらさ」を上記の作品とは異なる、少し捻った視点から描いている。そんな見方から、この作品の素晴らしさを紹介したいと思います。
2.あらすじ
聖なる竜が棲み人々の信仰の対象となっている世界で、なぜか竜たちが唯一近づかない地である陵獄島。そこには忌避の対象となる刑場が古くから置かれ、ここで罪人の子として生まれたイサギは、その剣の腕から処刑人として生きていました。出自ゆえこの島から一人では一生出られず、またその役目ゆえ全ての他人から忌避される彼は、せめて竜を一目見たい、そうすれば自分にも一つくらいいい事が起こるのではないかと、そう考えて生きていました。
そんな中、国の英雄であるはずのタツナミ将軍が、政治犯として島に送られてきます。この世界では、一定以上の剣の達人は斬首した者の記憶を垣間見られる「サトリ」という力を手に入れるのですが、サトリをいつの間にか身につけたほどの剣の腕と、罪人を慮る内面の優しさをタツナミに見込まれたイサギは、タツナミから剣の修行を受けることに。初めて自らを忌みの対象とせず、親身になってくれる大人に出会えたイサギは、いつしか竜に会いたいという気持ちも薄れていました。
しかし、ついに罪人であったタツナミの処刑が決まります。処刑人は当然イサギです。イサギは初めて親しくなった他人を殺すことに激しく抵抗するも、タツナミ本人の説得を受けて涙ながらに役目を果たすのですが、その時イサギがサトリの力で垣間見たのは、タツナミが秘していた、信仰の対象であるはずの巨大な聖なる竜をタツナミが屠った記憶。イサギはかけがえのない存在を喪失する一方で、なぜ国の英雄であるはずのタツナミが国の頂点にいる竜を殺したのか、その謎を大きな宿題として受け取ることになるのです。
そうして途方に暮れるイサギの前にやがて現れたのは、タツナミの息子チエナミ。複雑な関係にあった父の真意が知りたいチエナミの説得を受け、イサギは島を出て、大切な人から唯一託された謎を解き明かす旅に出るのです。
3.「秩序」による抑圧と包摂
このあらすじのうち、チエナミが島に来るくらいまでが第一話です。あまりにも内容が濃い、かつ完成された第一話であり、あらすじを書きながら「とりあえず上に貼った第一話を読んでもらうだけでも魅力はすぐ伝わるのでは?」「もうこの記事書かなくてもよくない?」と思ったのですが、せっかくなので続きを書いていきます。
お気づきの方もいるかもしれませんが、本作品における「竜」とはこの世界、この国、この社会の象徴であり、竜を斬るということは、この国、あるいは社会に対する最上級の否定です。タツナミは「政治犯」として陵獄島に流刑になっているわけですが、これはあくまで方便であり、タツナミが竜を屠った事実は公には隠蔽されつつも、実際のところは竜殺しの罪で斬首刑となっています。
しかしそれは同時に、イサギを忌避の対象として差別しているこの社会への否定です。そういう意味では、タツナミの所業は私たちの価値観にしてみればある意味「正しい」。イサギの境遇を、生きづらさを考えると、この社会は変わらなければならない社会なのですから。であるのならば、今はまだタツナミの真意はわからないものの、イサギはやがてタツナミの遺志を継ぎ、竜を屠りこの社会を変えていくことになるのだろう。そんなメタ的な展開予想も可能です。
しかしながら、本作の一番の魅力は、そういう安易とも言える読み方の余地を拒むその「社会観」にあると私は思っています。この作品は、社会を単に「個人の生きづらさの原因」とは捉えないのです。
3-1.自らも「秩序」に包摂されているということ
具体的に見ていきます。
まず、あらすじからも示されるとおり、本作の出発点にはイサギの「自分に何が起こったのかを知りたい」という欲求があります。ずっと島に孤独に閉じ込められていた自分を、国の英雄が気にかけてくれた。自分はその人を斬った。そしてその人は、国の象徴を斬っていた。自分のことを初めて認めてくれた人は、どのような人だったのだろう。何を考えていたのだろう。俺は、何を斬ってしまったのだろう。生来何も持っていなかったイサギは、自分がまた何も持たない状態に戻ってしまったこと自体には疑問を持ちません。しかし、「自分が失ったものが何だったのか」という疑問からは、逃れられなかったのです。
だからイサギの旅は、「何も持たない自分が何かを持てるように社会を変えていく旅」としては始まらない。そうではなく、「竜を頂点とするこの社会はいったい何なのか」を知っていく旅として始まるのです。
では、イサギは旅の過程でこの社会の理不尽さを知り、これに怒りを覚えていくようになるのかというとそうでもない。むしろ彼が知っていくのは、彼すらもある意味包摂されている、この社会の完成された「秩序」です。
イサギが旅路について最初に始まるエピソードが、イサギとチエナミが早々にタツナミ一族の弱体化を狙う賊の襲撃を受ける一幕です。チエナミは初めての経験に戸惑いながらもなんとか賊を殺さず制圧する一方、イサギはこの賊を容赦なく斬首し屠ります。しかし、その時にサトリで彼が知るのは、この賊が少なくとも悪人ではなく、単に主人に汚れ仕事を命じられた、幸せな家庭生活のある一般人であるということ。彼は賊の殺害を、これまでの処刑で慣れているからと容易く行ってみせたわけですが、ここで初めてイサギは、自分の所業の意味を悟るのです。
ここが重要なのですが、この時イサギが気づいたことは、「今回の殺害で自分は初めて手を汚してしまった」ということではありません。当然、この賊による襲撃に法的な正当性はありません。だから賊はその時点で罪人であり、そういう意味ではイサギによる賊の殺害は、これまでイサギが行っていた罪人の処刑と変わらない。だから彼がここで気づいたのはむしろ、「これまで自分が当たり前に処刑してきた者の中にも、今回の賊のような者がいたのではないか」「自分の手はとうの昔から汚れていたのではないか」という可能性です。
しかし、イサギはその汚れた手を咎められ刑罰を受けることはなく、今も太陽の下を歩くことができている。それはなぜかというと、彼の殺しは「法に拠る処刑」として公権力の赦しを受けていたからです。そういう意味で、彼は確かに社会に虐げられていた者でありながら、同時に社会の側にいるのです。仮に今回の賊のような、「悪人」とは言えないような者がこれまで処刑した者の中にいたとしたら、イサギもまた「社会において行われる理不尽な抑圧」の担い手になっていると言える。そして、ここも重要なのですが、そんな刑罰システムがあるおかげで、人々は犯罪に手を染まるのを思い留まり、社会がきちんと維持されている。イサギは社会に虐げられている一方で、他人を虐げる社会システムに包摂されているし、その社会システムのおかげで、この社会は幅広い人々が平和に過ごせる秩序だったものとして確立されている。それが、島を出たイサギが最初に目にしたこの社会の実像だったのです。
この「社会秩序に虐げられている者が、実は別の側面では社会秩序による抑圧に加担しているのかもしれない」という構造は、物語の出発点となったタツナミの死についても繰り返される構図です。
タツナミは彼なりの信念があって竜を殺したはずですが、竜を頂点とする社会はこれを許さず彼を死罪に追いやっている。これはまさにタツナミに対する「社会からの抑圧」であるわけですが、彼はこれを受け入れる理由として、「これまで国の命令を旗にして戦で散々人を殺してきたのだから、国が自分に死ねというなら自分も死なないといけない」と説きます。彼は戦で多数の命を奪ってきたが、これには「敵対勢力を平定し、平和と秩序を実現する」という国から与えられた大義名分があり、だからこそ彼の所業は赦されていた。彼は、「社会」という名義をもって多くの人々を抑圧していた。その上で彼が社会を脅かすことをしたのであれば、それも赦されるというのは筋が通らない。だから、タツナミは社会からの断罪を受け入れるわけです。
作品全体の出発点と言えるこの重要な一幕においても、「個人VS個人を抑圧する社会」という単純な対置関係が成立していないことがお分かりになるでしょう。社会は平和と秩序を守るために構築されており、だから当然平和と秩序を願う私たちはそれを享受し、またそれに加担している。しかしながら、その社会が求める規範に個人が反する立場になることは確かにあり、その場合は社会は容赦なくあなたに襲いかかる。私たちは社会秩序に護られ、これに加担しているが、その上で、ある一面では同じ秩序に抑圧されることがある。これが、『竜送りのイサギ』が描く社会観なのです。
3-2.イサギをめぐる天秤
とはいえ、では本作は「社会秩序は個人を守っているのだから、少々秩序のせいで自分が苦しんでも我慢しろ」という説教くさい作品になっているのかというと、決してそうではありません。
本作2巻中盤からは、イサギが八雲という剣士と相対するエピソードが始まるのですが、その中身はまさに社会に虐げられた末に生まれた「無敵の人」の苦しみを描く内容です。八雲はイサギ同様「透奴」なる被差別身分にある者なのですが、過去に家族を、また誇りを失い社会への怒りを腹に抱える中で、タツナミが落とした竜の尾から作られた刀を偶然手にしたことで覚醒。この刀で無差別殺人を繰り返すようになり、これをイサギやチエナミが止めようとします。
それまでは怒りを抱えながらも静かに生きていた八雲が、刀を手にした途端凶行に走るようになったのはなぜか。それは、竜に由来する刀との出会いが、彼にとって「社会に見放された自分が、社会を超越する存在に見初められた」という並々ならぬ意味を持ったからです。それは「社会を超越し、社会を破壊する権利のある者」としての自認を、震えるほどの歓喜を彼に与えたわけですが、それはまさに、彼がずっと苛まれてきた抑圧と孤独の裏返しであると言えるでしょう。影が濃くなるほど、光に連れ出された時の眩みが強くなるのです。
イサギはこの八雲に対して、やはり複雑な思いを抱きます。「社会に見放された自分が特別な存在に見初められた」というのは、まさにイサギがタツナミとの出会いを通して得た喜びであったのですから。しかし、イサギは出会った相手が冷徹な刀ではなく心優しいタツナミだったことで、また今もチエナミのような理解者がいることで、「たまたま」一線を超えずに済んでいる。社会秩序に踏み潰されずに済んでいる。そう、彼は八雲に辛くも勝利した後に考えるのです。
だから、この社会というものが誰かを虐げているのであれば、それはやはり変えていかないといけない。しかし、繰り返しますが、「秩序」は別の側面では人々を守るために存在していて、故にあなたがそれを享受し、また加担していることもある。であるのならば、おそらくやるべきことはその社会秩序を全否定することではない。あなたが社会から受け取っているもの、誰かが社会から奪われているもの、あなたが社会を通して誰かから奪っているかもしれないものを一つひとつ紐解いていって、なんとかあなたと誰かの利益が部分的にでも両立できるように、秩序を少しずつチューニングしていくしかない。少なくとも私はそう考えます。
しかし、この作品はおそらく「竜を斬る」物語です。この作品は、その斬首の腕から「首送りのイサギ」と称された少年が、やがて「竜送りのイサギ」になる物語なのです。そして、繰り返しますが本作において竜とは社会秩序の頂点です。はるか空の彼方を悠然と飛ぶ竜の姿は、個々人の都合に拠らず、全体最適のために厳然とそしてそこにある秩序の隠喩にふさわしいとも言えましょう。その竜を斬ることは、そのまま社会転覆の象徴なのです。
この作品は上記のとおり一筋縄ではいかない社会観を真っ先に提示しながら、そのようなあまりにラディカルな方法に手をつけるのでしょうか。であるのならば、イサギはこれからも、八雲のような一線を超えないでいられるのでしょうか。そういう様々な天秤が揺れ、その危うい揺らぎが読者を惹きつけながら、本作は前へと進んでいくのです。
4.イサギという「他者」
また、この天秤の揺らぎを別の方向から増幅させているのが、本作が印象的な場面で挟んでくるイサギの「他者性」の演出です。
言うまでもなくイサギは本作の主人公であり、一瞬女の子かな?と思ってしまう美少年のようなデザイン、また第一話で描かれる生来の境遇と大切な人の首を斬るという悲劇は、読者の共感を引いて余りあるものがあります。彼は生まれという自分ではどうしようもない理由から、理不尽に社会から疎外されている。なんとか彼が幸せを見つけられるような、そんな世界が実現していくような物語にならないか。そう思いながら私たちは本作を読み始めることになるのです。
しかしその上で始まるのが、上記の賊の襲撃を受けるエピソードです。チエナミは突然の襲撃に戸惑い、おそらく初めて本気で人を傷つけることを目的に剣を振るうのですが、イサギは躊躇いもなく賊を、例えば時代劇で見るように胴を撫で切りにするのでもなく、斬首をもって一瞬で殺害します。この辺りの演出はぜひマンガを買って実際に読んで欲しいのですが、ここで読者が思い知らされるのは、イサギは人の生き死にについて、私たちとは絶望的に異なる感覚を持ち合わせているということです。
また、それでいてイサギ自身は結局人を殺すことについて、自分では気づかない程にストレスを負っている。そういうこともまた描かれていくのですが、本作のこの辺りの描写も目を背けたくなるようなものがあります。この演出の効果を例えるならば、親しいと思っていた友人が実は大きなストレスを抱えていて、突然大量のリストカットの跡を見せてくるような感覚と言いましょうか。その時、確かに苦しんでいるその友人に対して、あなたは躊躇なく手を差し伸べることができるでしょうか。それとも、ちょっと距離を取りたいかも・・・なんてことを思ってしまうでしょうか。そういう感覚、衝撃的な距離感を、この作品は読者とイサギの間に随所で作り出してくるのです。
一瞬でも感じてしまうこのイサギとの距離感は、上記の「イサギも幸せになれる社会になってほしい」という読者が当たり前のように抱いていた考えを、ダイレクトに揺るがしてきます。
確かに、自分の平和を保証してくれているこの社会秩序が他の誰かを虐げているのならば、自分の平和と誰かの平和が両立できるように、社会のありかたを変えたほうがいい。このこと自体に異論を挟む人はあまりいないでしょう。しかし、ではあなたが考えるその「他の誰か」というのは、どこまでの範囲の人が含まれているのでしょうか?あなたと全然異なる文化や感覚を持つ人は?外国人は?病気を抱えていて社会に貢献できない人は?さらに進んで病気を抱えていて、その病気が原因で他人に不快感や迷惑を与えてしまう人は?その病気が生来のものか後天的なものかで結論は変わりますか?老人は?そして、容易く人を殺すことができ、心に病を抱えているイサギのような人があなたの社会にいた時、それでもその人はあなたが考える「幸せになってほしい私たちの社会の一員」にちゃんと含まれますか?
・・・そういうことを考えるとき、本作の読者は、「できるだけ多くの人が幸せになれる社会になってほしい」という誰もが同意しそうに思える命題が、実のところ難しい問題を孕んでいることに気づくのです。私たちは、どこまでの人を「同じ社会の一員」として認め、故にその人の利益と自分の利益とをすり合わせるために、現状の社会を変えようとすることができるのでしょうか。
これは、よく人材活用の文脈で使われる「インクルージョン」という概念に関わる問題です。国籍や障がいを持つ方が、それを理由にキャリアから排除されずに社会に包摂されるのを望ましいとする考え方であり、少なくとも理念としては、私たちの社会は「誰一人取り残さず、社会に参加してもらう」ことを掲げています。これは言うまでもなく素晴らしいことです。
しかし、現実としてこの世界はそうはなっていません。社会福祉は基本的には国家単位で提供されていて、移住してきた外国人がそれを活用することに、もとからその国にいる人は激しく抵抗する傾向にある。精神的な障がいを抱える人たちが過ごす施設を建設しようとすると、地域住民から反対運動が起こる。少子高齢化が進む財政が厳しい国家では、老人への社会福祉の提供を制限しろという声が起こる。これらの声の中にはやはり受け入れられないものもある一方で、場合によっては理解されうるものもあり、まさに我々が現在進行形で考えなければならない問題です。
私たちは、誰かと誰かの幸せが両立するようなあるべき社会秩序を考えるとき、そもそもその「誰か」とは誰なのか、誰がこの社会を構成しているのかを、誰が「他者」で誰がそうでないのかを、まずはきちんと見据えなければならないのです。
3.で述べたように、「皆が抑圧され、しかし享受し加担している」という社会秩序の実像を提示し、その抑圧の低減を議論した上で、「そもそも主人公が私たちの考える『社会』の埒外にある」という可能性を示すことで、読者の考える「社会に含まれる『皆』の範囲」に再検討を促す。これが、この『竜送りのイサギ』という作品の営為の全容なのであり、他でもなく、私がこの作品に見出している凄みであるのです。
5.おわりに
多くのマンガ作品で「生きづらさ」が描写されるのは、「生きづらさ」を描く作品の存在自体が、その生きづらさを抱える人にとって大きな救いになるからだと思います。生きるのが辛いのに、ともすれば他人からそれは甘えているからだとか、弱いからだと理不尽な叱責を受ける。そんな中で、確かにその「生きづらさ」は存在すると認めてくれる作品がある。その作品が多くの人に読まれ、共感を呼んでいる。それはまさに「あなたは確かにここにいる」という、あなたの存在の承認なのです。
一方で、その「生きづらさ」は誰かの明確な悪意によって生まれることがある一方で、誰かがあえてあなたを傷つけようとしたのではなくて、生活環境だとか、社会規範だとか、そういう社会の秩序の中で生まれてしまうものもある。それらは平和だとか規律だとか、それがあると助かる人がいるものを維持するために構築されているのであり、だからあなたも、何かの秩序によって生きづらさを抱えている一方で、逆にあなたが享受している秩序が、誰か別の人の生きづらさになっている可能性がある。また、その「別の人」というのは、あなたが思うよりもさらに広い可能性があるのです。
そういうことを考えてみると、あなたの生きづらさを解決するには、ただ社会の全てを敵視するのではおそらく十分でない。そうではなく、他人が抱える別の生きづらさに目を配りながら、一緒にわたしとあなたの集合体としての社会をチューニングしていくしかない。生きづらさが激しいものであり、他人に気を配る余裕がない人がいれば、周りの今「生きづらさ」をたまたま抱えていない人が、その人の分まで考えていかなければならない。そこまで踏み込んだ議論をしているのがこの『竜送りのイサギ』という作品であると私は考えていて、故に、「生きづらさ」の認識がマンガ界に広まった今、その次に幅広い人々に読んでほしい作品であるのです。
(おわり)