2/25 積極的に否定しない習慣
Twitterを見ていると、
「こんなにいい人がいた」という内容、あるいは「こんな嫌な奴がいる」という内容で盛り上がることが多いように思えます。
両者の比率はわかりませんが、前者を賛美し後者を拒絶する。
その源は同じ良心に思えますが、意図というか言葉にしたい感情は異なるように感じられます。
たぶん両者の良し悪しは人工的なものなので、測りませんし測れません。
ただ闘病中の人間としては、後者、要は誰かや何かを積極的に否定する営みには参加したくないと思っています。
単純に、心に負担がかかるからです。
病気だとか痛みを患っていると、自他の痛みに敏感になります。
かと言って誰かを傷つけることが相手にとってどうこう、と言いたいわけではありません。
槍玉に挙げられるような「嫌な奴」にも痛みはあるでしょうし、そこは否定してはいけないところだと思ってはいます。
ただ個別の痛みを意識するにはこちら側の余裕がいる。
だから私は否定すらせず、関わらないことを望みます。
「殴ったら自分の拳が痛い」と言いますが、たぶんそれと似た損得勘定です。
否定し批難することがどんなに簡単になっても、各人の根っこに罪悪感はたぶんあると思います。私の中には深く根付いています。
いちいちそこに意識を向けるのも疲れます。
だけど罪悪感がないように振る舞わなければいけない状況は、なおしんどいように思えます。
環境にもよるでしょうが、幼い頃に教え込まれた道徳は理に適ったものではないし、たぶん正しくもありません。
けれど今ある罪悪感は否定しても仕方がないし、そこまで間違ったものでも、いらないものでもないように思えます。
痛みと同様に、度を越すとかえって過ごしにくくなりますが、不便ではあっても不要ではない。
慢性的だったら病に属すると思いますが、一時的ならそうではない。
良心の痛みと言うくらいだから当たり前の気もします。
とは言え現実に目の前の人に傷つけられることも多いですし、その不満を口にすることはあると思います。私も治療院でたびたび愚痴を聞いてもらっています。
溜め込むのは良くないし、それ自体が痛みです。吐き出すことには、自分で置かれた状況を把握する意味もあります。
それはそれで仕方がないことだと思う一方で、先生への「申し訳ないなあ」という感情は否定してはいけないし、する必要がない。そう思います。
優しくなれと言う気はありません。
ただ自分の中に優しさとか良心と呼べるものがありそうなら、それを否定する必要はないのではないか、という話です。優しさが痛みでないのならなおさらです。
痛みが増してきたのであとは控えます。
ただ今回のような話題になると、自分が「いい人ぶっている」という感情はどうしても出てくると思います。
私なりの対応策はあるので、後日お伝えできればと思います。
たくさんのフォローや「スキ」をありがとうございます🙇♂️
書いたものを読んでもらえるのは嬉しいですし、気分も安定するので本当にありがたいです。
感謝致しますm(_ _)m
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