2/24 「さあどうする」という問い
意識を変えることで痛みを対策しようとするよりも、体を動かして意識を外に向けた方がいい。
前回、前々回の記事でそう書きました。
総じて精神的なことには自由がきかない。私はそう思っています。
今自分がどういう心境にあるのかは、ほとんど経験や環境によって決まると考えるからです。
体についても同じで、少ないとも過去や未来を変えられるはずはない。
ただ今この瞬間に何をして何を選ぶか、それだけは自由だと私は信じています。
(いずれ触れると思いますが、私はあまり自分の信念、あるいは思想に一貫性や厳密さは求めません。
便利だったら信じるし、不要になったら別のことを信じる。
目的が治療であって学問ではないので、そんなスタンスを取っています。
だから厳密な議論をする気はありませんし、そもそもできません)
闘病者として、また講師として、私はよく自他に「さあどうする」と問います。
まさに今できることは何か。
今何をするべきであり、何をするべきでないか。
その判断は、そして決定は環境によらず状況によらず、自分の意思によると考えます。
それだけが自分の決められることだと。
薬が効かない闘病者としての私の問い、言ってみれば完全版はこうです。
痛みがある。
逃げ場はない。
さあどうする。
それに対する私の答えが、「今できること、するべきことをする」です。
目の前の光景に見入ったり、体を動かしたりして外に意識を向ける。
その問い自体が浮かばない状況はあります。それはそれで仕方がないし、たぶんそこに私の言う自由はありません。
今を意識できない状況は多々あり、「今ここにいる私」を感じなければたぶん自由は感じられません。
それでも今、目の前の今に意識が向いたなら、何をするか、どうすれば最も痛くないかを選択できる。
そこを誤ったり不真面目に臨んだりすると、後悔する。後悔は痛みがある時の心当たりになります。
とりわけ治療においては何が最善かわかりませんが、少なくとも最善と思われることをしていれば後悔の痛みはありません。
経験から言って、自分に原因があるように思える痛みは、そうでない痛みよりしんどいものです。
今痛いのならそれは仕方がない。
それでも今、まさに今の瞬間ならば後悔しない選択ができる。
私はそう信じています。
今回は以上です。
上記の「一貫性のない議論」、名付けるなら自家製の哲学についてはまた書くように思えます。
思っていたよりもずっと多くの方に読んでいただけているようで、本当に感謝しております🙇♂️
闘病の軌跡が伝わることは率直に言って嬉しいです。
それが誰かの、何かのお役に立つのなら、なおさらです。
ありがとうございますm(_ _)m
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