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やさしくなる

母がどんどん優しくなっていく。
わたしはそれを、日々かなしく見まもるしかない。
やさしい人には、優しく接する。ずっと怒ってばかりだったわたしは、苛立つことすらほとんどなくなった。

11年ぶりに、大阪の地を踏んだ。
あれ以来だ。もう来ることもないと思っていた訳でもないし、すぐまた来るだろうとも思ってはいなかった。そんなことを考える隙間もないままに、11年は過ぎた。あの時と同じように、先生と呼ばれる仕事をさせてもらっているし、父も母も、生きてそばにいてくれている。
絵は、
当時よりも描くようになった。あの頃は日常的に描いてなどいなかった。
いまは、絵を描くことが食事や睡眠と同じように生活の中にある。その意味において、ずいぶん健康になったと思う。
食事が偏ったり睡眠が不足したりするのと同じように、描かない時間があるのは私にとってはあまり健やかなことではない。

次はなんば。
千日前線に乗り換える。

電車のホームなどというものは、月日が移ってもさほど容易に動くものではないから、記憶の中のそれとすり合わせながら移動する。
大阪の地下鉄は、線にもよるけれどホーム幅が広く、造りがパリのメトロに似ていたことを思い出す。地下鉄車内のアナウンスもどことなく聞き覚えがある。街の中も、あまり変わっていないように見える。新しいバリスタショップはできても、劇場も、うどん屋さんも、変わらぬ風情で記憶と同じ場所にあった。

この一週間は、父がショートステイ先にいる。その間の、仕事も母の予定も入っていない一日を大阪行きに充てた。母は何も言わずにそれを容してくれた。3月の個展を終えてから、いやその仕度の最中からひっきりなしにイベントが続き、ただ日々はせわしく過ぎた。縦軸にその時々の必要に迫られた動きがあり、横軸に父母のサポートがある。救急車や、タクシーの中で硬い顔で窓の外を見ていた日。あんなに荒波に次ぐ荒波のなかに居たのが嘘のように、いま、辺りは凪いでいる。

多田富雄さんの著書から寛容という言葉を教えられてしばらくになる。寛容ということを自然に行うには、ある程度の年齢が必要なのかも知れない。今この年齢になり、ようやくわたしは少しずついろいろなことに寛容になれている。
若い時というのは、あらゆることを鋭い刺激として受けとめがちで、緩やかに受け容れることなどできないのではないか。少なくとも、私はそうだった。ずっと、何かにつけて怒ったり悲しんだりしてきた。11年という月日は、常に泡立つ波とともにあった。

言葉を変えるならば、年をとるということは、やさしくなるということだ。年をとったひとが皆やさしいかと言えば、どうだろう。そうでもないような気もするし、そうであるようにも思う。何にしても、時は流れ、母も、おそらくはわたしも、やさしくなった。
ベランダで咲いたばらを母に持って帰る。とっておきの、黄色い花。



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さや
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