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友、とは

あるきっかけで、もう10年以上前の披露宴のことを思い返す。
私はその宴席に、ひとりの友人を呼ばなかった。大学時代の友人たちと年に二回のペースで続けていた所謂女子会の、そのわずか4、5人のメンバー。その内のひとりだけを招待しない、という暴挙。

その、ひとり、である彼女はその頃、家族間の諸々や職場でのあれこれについて、集まりの度に愚痴をこぼした。こぼすという なまやさしいものではなく、溢れ出すように、集まれば最初から最後まで、テーブルいっぱいに愚痴を並べ続けた。
私はそれに耐えきれなくなり、何かと理由をつけて女子会を欠席し、件の披露宴の招待者名簿からも、彼女を除外した。

その時はまるでそれが正当なことであるかのように、大した躊躇もなく、否、正義に裏打ちされた切り札を使うかのように、他のメンバーにだけ招待状を送ったのだ。


誰もが大変さを抱えて生きている。
せっかくの楽しい集まりの時に、そんな話をするのは大きく間違っている、というのが私の言い分だった。こと家の中の修羅については、私はずっと外に出すことができずにいた。そうするものではないと思っていた。それを易々と全公開する彼女には、ことさらに反発心が湧いていたように思う。
自分だけ招待されないと知った時、彼女はどんな気がしただろう。その時は彼女の気持ちにまで思いが至らなかった。我が身にふりかかったことに対応するので手一杯だった。それでいて何やら私は偉そうに、「正しい」鉈を振るった。


どんなに傷つけ、寂しい思いをさせてしまったか。呼ばれた他のメンバーにもまた、気まずさがあったに違いない。今は、わかる。想像できる。どちらにも、申し訳ないことをした。
幸いその宴席後も女子会は続き、あるタイミングで私は彼女に非礼を詫びることができた。がしかし今、また違う思いにとらわれる。

あの頃、会を欠席するのではなく、彼女に面と向かって自分の気持ちを伝えていたらどうだったか。愚痴を並べすぎるのはよくないと。それを出さずにきた私は殊に聞くのがつらいと。そして、わたしに何かできることはあるか、と尋ねられていたなら。
何が正しいか。正義感からの行動が高飛車な排除に過ぎないとき、それは人を傷つける。

俄かに春めいてきて、夜空も霞がかることが多くなった。今夜も、窓から星を探す。




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さや
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