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春よ
風が止んだ。
空は真っ青で四十雀が囀る。わたしは重く暗い色の冬服のまま、広く明るい通りに放り出された。所在なく見上げる梢にはまだ芽吹きの気配すらないが、道端の沈丁花は紅い蕾の先端を開き始めている。煉瓦造りの女子校の窓からはピアノの旋律が流れ、光も空気も、すべてが柔らかくなった。この暖かさが嬉しいはずであるのに、痛む指先から噛み締めた顎から力を抜くことができずにいる。身も心も傷ついている。傷ついただけではなくて傷つけた。その確かな感覚。傷つけたひとの瞳。まなざし。
食卓には小さな花を必ず生けていた。
それがある時から消えた。父がコップに挿した花の茎を食んだから。赤いロンドンバスの置物も消えた。父が投げるから。昨日は茶碗を投げた。顔に唾され腕を掴まれる。わたしは怒る。ひとりで歩くこともままならない老人を罵倒する。無い物を数える母に苛立ち、恨みごとを言いつのる。
そう、駄目なわたし。つらくて、つらくて、潰れそうな冬と、それを理由に醜くなるわたし。
この日々が終わったとき、どう振り返ったらよいだろう。
時が過ぎて、みな過去になる。あの時はつらかったと自らを憐れんでおわるより、あの時これを得たのだと思いたい。せめてこのおかしな自責の念を無くしたい。逃げるな、勇気を出して、今を変えよ。
春よ、どうか、味方になって。
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