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Sさん

Sさんのことを不意に思い出した。

新しいクラスの開講の初日、満席の教室に入ってこられたお姿を今も忘れない。
小柄なお身体で杖をつき、矍鑠としてはおられたが、ほかのアクティブシニアの皆さんの中にあって、ひとまわりは年嵩であろうことが一目でわかった。
わたしはその日に初めてお目にかかったから、ご年配だな、大丈夫か知らと、少し失礼な思いでそのお姿を見つめていたのだ。

あまりお喋りな方ではなかった。いやむしろ寡黙な方だったが、時折、とても印象的な口調でひとことを仰る。ひとまわりやそれ以上歳若い我々 ー他の生徒さんとわたくしー は、その一言ひと言を喜んで聞いた。あまり喋らない方であるだけに、たまに発する言葉はいちいち趣きが深かった。
静かな教室で描いているさなか、やおら立ち上がり、
「失敗は、成功の母」
と呟いて、ご自身の絵を見ておられたこともある。皆はあら、と思わず微笑み、確かに、そうだわね、と頷きあった。

絵はとてもお上手だった。わあ、と講師であるこちらが驚くようなデッサンを毎回仕上げられた。同僚は、Sさんの筆箱の中にある鉛筆が、それはそれは鋭く研がれていたというのだが、私はそれを覚えていない。情けないことだが、授業を進めるのに精一杯で、生徒さんの手元の道具にまで目を配る余裕がなかった。
それから10年が経つ。

たしか、5年ほどまえのこと、いや7年前だ。その時すでに教室をやめられていたSさんは、私の個展に、奥さまと娘さんと共に来てくださった。
Sさんは、教室に来られていた頃よりもさらに少し小さくなられたような感じがした。朗らかに、しかし同じお話を何度もなさった。その様子を、ご家族はすこぶる優しい眼差しと相槌とで受けとめていた。

奥さまからお手紙を頂いたのはその少し前だった。美しい季節の便箋に、きれいな文字。
絵を習い、作品を年賀状に使い、作品展に出品し、人生の最終盤と言ってよい時期に、思わぬ輝きを得た、と。Sさんに代わって、もったいないほどの表現で感謝が綴られていた。
体調を崩され、お一人で教室に通われるのが難しくなり、Sさんは教室をやめられたのだった。

ギャラリーでSさんとご家族とともにお茶を飲みながら、私は同じ話を繰り返されるSさんに軽く狼狽えていた。奥さまから、次いで娘さんから、教室ではなく家に来て絵を教えてもらえないかとの依頼をされても、いやそれは、とあっさりとお断りした。

今になってみると、あの時の奥さんや娘さんのお気持ちが痛いほどにわかる。Sさんへの深い愛情もこの胸に沁みてくる。個展の芳名録に書かれた娘さんのお名前は、Sという苗字ではなかった。ご住所は神奈川だったように記憶する。ご自身の家庭があり、遠方から、わざわざ私ごときの個展会場へ、おそらくは車を出してご両親を連れて来られた。そのお気持ちが、今は、泣きたいほどにわかる。
ただうろたえてその思いに微塵もお応えしようとしなかった私。その場に返ってぴしゃりと頭を叩いてやりたいが、もう遅い。
そのどれくらい後だったか、奥さまから、やはり美しい手跡で、Sさんが亡くなられた旨のおたよりが届いた。

7年という年月は、父を変え、母を変えた。私は相変わらず余裕がない。
せめて、あの娘さんのようにやさしくなれたなら。そう願う。



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さや
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