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9月15日

昨日の朝とはうってかわって、芋を洗うようなホテルの朝食会場で、わたしと母はぼんやりとしている。このホテルにこんなに人がいたとは。世間は連休であったらしい。
マイペースの母を残して、先に部屋に戻ると荷造りをする。今日も伯父に車を出してもらうのだ。約束の時間に遅れたりしてはならない。増えてしまった荷物は宅急便で送る手配をした。
伯父と昨日の家へ向かう。助手席から窓の外を眺めながら、わたしは呟く。

今日お父さんの誕生日だ

そうやなあ

と伯父は答えた。
昨日の晩は、M鉄工所の息子さんとお会いしていたと伯父に話をする。同い年のKちゃんとの再会を母はとても楽しみにしていた。約束通りに待ち合わせの場所に着けば問題はなかったのだが、そうはいかなかった。部屋の移動や件の忘れ物さわぎもあって仕度は遅れた。その上タクシーが来ない。結局30分も遅れて着くと、中華料理店の支配人は申し訳なさそうに

帰られました

と告げた。

Kちゃん帰っちゃったって

隣に立つわたしにもそれは聞こえているのだが、母は絶望を全身に纏って、そう訴えた。

お盆のおわり頃のこと、大文字送り火の映像を見ながら、母はむかし話をした。M鉄工所の社長さんが送り火を見せに車で連れていってくれたことがある。祖父と、母と、父を乗せて京都まで。送り火を皆でみたあと、知っている店で食事をご馳走してくれた。素敵なお店で、とても美味しかった、と。それはそうだろう。若い日の夏の夜、父との思い出。何を食べても美味しく、楽しかったに違いない。その社長さんはもうおられない。
Kさんは、若い日に東京の大学に通っておられた。母の話によれば、夏休みも郷里に帰らず、祖父の事務所を手伝ってくださっていた。

Kちゃんは果物が大好きで
「ぼく、お小遣いはみんな果物買っちゃうんだ」
って

それは、なんの小動物の生まれ変わりかと突っ込みたくなるが、とにかく、可愛らしい人であったらしい。
そして当夜かなり久しぶりにお会いすることになっていた。しかし時刻を過ぎても母は約束の場所に現れない、加えて携帯電話は通じない、となれば、お帰りになるのも無理のないことだった。
母の携帯がないからKさんの携帯番号はわからない。番号案内のお世話になり、Kさんの会社に電話する。ご家族を煩わせてなんとかご本人にアクセスできた。Kさんは戻ってきてくださった。
母は絶望の淵から生還した。本当によかった。

東京で過ごした日々のことを

ためになって面白かった

とおっしゃっていた。この方もやはり今なお現役で、とてもお元気そうだった。内側から湧くものを、なおお持ちだという感じを受けた。アイデアやエネルギーという言葉に置き換えてもいい。

今回の旅は、父の納骨が主ではあったが、母の会いたい人に会い、行きたい場所に行く旅だった。
伯父とわたしは、母の忘れ物いっさいをめでたく落手し、ホテルで待つ母と合流して、駅へと向かった。駅の百貨店に勤める従姉妹にも、ほんの束の間だったけれど会うことができた。彼女はわたしのひとつ上だ。幼い頃から少しだけお姉さん。今もそうだなあと確認する。

そこから私鉄で県庁所在地に移動し、今度は母の幼なじみと会う。この方も東京の女子大に通っていた。このところ、何かあると母はよくこのYさんに電話をして、ありえないほどの長話をしていた。それで母が何かしら救われていたのなら、この方も恩人と言っていい。この日は一軒家のフレンチレストランにお連れくださり、さらに買い物に付き合っていただいた。
今度は私鉄の特急電車に乗る。傾き始めた日を窓の外に見ながら、新幹線の駅まで。母は、座席に着くとすぐにうとうととし始めた。旅も終わりに近づいている。





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