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子どもが子どもだった頃

屋上へ続く外階段を昇る人影が見えた。
服と体の一部が上へと消え、男か女かもわからない。タンタンという足音が響きこれも消えた。
この老朽化甚だしきマンションに住んでもうどれくらいになるのだろう。
同じ階のNさんの奥さんには長らく会っていない。反対にご主人にはよく会う。奥さんのことを聞いてみようかとも思うが、やめておく。

角の部屋に新しく若いご家族が越してきて、少し経つ。お正月に、お父さんと可愛らしい娘さんふたりが、屋上から降りてきたのに出会ったことがある。休日らしい服装の皆さんに挨拶すると、小さな妹嬢は私の後ろに回り込むようにして私を見上げ、はしっこのひとだよ!とお父さんに言う。お姉ちゃんは慌てて私に、気にしないでください、と言った。4歳くらいと6歳くらいか知ら。
はしっこの部屋にはどうやら人が住んでいるらしいのに、あまり会わない、はしっこのひとどんな人だろうね、とか、話題にしてくれていたのかと想像して、突き当たりの住人は何やらうれしくなる。そして小さなふたりがずいぶんかわいいなあと思う。


あの時分からずいぶん経ち、私は立派なはしっこに住むおばさんになったのに、心の内は驚くほど変わっていない。夢見がちな子どものまま、大なり小なり似たような失敗を繰り返して生きている。


子どもが子どもだった頃、ひとりになれる場所では妄想を膨らませて遊んだ。一人っ子だから、ひとりは得意だった。お風呂でも指先から落ちる水滴を見つめて妄想に耽り、母が呆れを通り越して悶絶するほど長湯した。今だってそうだ。寒い寒い日、ぽちゃんと湯舟に浸かると、角張った中年の身体は円くなり、ひとりのこどもになる。湯気を相手に夢を見る。

Nさんのお宅には二人の息子さんがいたが、ふたりとも既に巣立ちこのマンションにはいない。その弟君の方が、中庭に面した手すりに跨ったまま動けなくなったのを、父が助けたことがあった。手すりはそのままだが、彼も父もずいぶん変わった。
いや、もしかしたら変わってはいないのかも知れない。ひとの本質とは何だろう。経年変化したマンションと、わたし。この暮らし。
今夜も湯舟で問いかける。




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