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小説「老人と羅針盤」2200字

 葬儀場の煙突から立ち上る煙を見ても、なに一つ実感が湧かなかった。話さなければいけないことは、まだたくさんあったはずなのに。隣について教わらなければいけないことが、山ほどあったはずなのに。私はいつまでも、煙から目を逸らすことができなかった。

「お疲れ様。俺は仕事に戻るけど、お前は?」

 同期の山本がタバコをくわえながら歩いてきた。何人かの同僚と一緒に会社に戻るらしい。この会社で生きる人間として、それが正しいのだろうと頭では分かっていたが、私にはそれが非情なことのように思えた。

「少し、残っていくよ。悪いな」

 社長はこんな私を許してくれるだろうか。でも私には、今にも崩れ落ちていきそうなこの気持ちを立て直す時間が必要だった。

「ああ、あんまり思い詰めるなよ」

 山本は私の肩を2回叩いて去って行った。

 私は葬祭場を出て駅に向かわず、この辺りを歩くことにした。なにを考えるべきかもわからなかったが、とにかく歩きながら考える時間だけが欲しかった。降りたこともない駅で、馴染みのない通りを黒い服のまま歩いた。平日の昼間、人通りも少なく、誰に咎められることもなかったが、ふと目に止まった緑に囲まれた一角が気になって、吸い寄せられるようにそこに入って行った。

 そこは少し大きめの公園だった。樹木の林立する区画や鴨が泳ぐ池などがある手入れの行き届いた庭園のようだ。隠れたかったわけではないが、目的もなく住宅街を歩くよりは落ち着ける。私はこの中で考える時間を過ごすことにした。

 三崎社長は私に生きがいを与えてくれた人だった。だらだらと就職活動をしていた私は、就職説明会でこの会社を見つけ、そこで社長に出会い、その人柄に惚れて入社を熱望した。あの人の夢は私の夢であり、あの人は私の人生の指針になった。それなのに。45歳の若さで亡くなるなんて…。

 公園には池に向かって穏やかに流れる川があった。私は流れに逆らうように川のほとりの歩道を歩いていて、釣りをしている老人に気がついた。

「なにが釣れるんですか?」

 気づいたら話しかけていた。老人はこちらに気づいて、微笑みながら言った。

「さあ、なにが釣れるんでしょうね。実は魚には詳しくなくて」

 警戒されているのか、はぐらかされてしまった。いや、本当に知らないのか?

「ただ釣ることだけが目的なんですか?」

 よく見ると釣った魚を入れるバケツなんかは持っていないようだ。

「どうでしょうね。釣れないことが目的なのかもしれません」

 変わった人に話しかけてしまったんだろうか。でもこの人なら何をぶつけても返してくれそうだ。

「お邪魔じゃなければ、少しお話よろしいですか?」

「ええ、見ての通り釣れる気配もありませんので。構いませんよ」

 老人は釣竿を垂らしたまま答えた。

「私の人生の指針をくれた人が亡くなってしまって」

「それはご愁傷様です」

「亡くなったのは勤めている会社の社長なんですけど。この先、どう生きればいいかわからなくて」

「指針がなくなって、進路がわからなくなってしまった、と」

「そうです。そういうことです」

 私の中でモヤモヤしていたものを老人が言葉にしてくれた。

「私は昔、船乗りをしていました。ああ、船長などではなく、一船員です。船にはもちろん羅針盤が付いています」

 私は黙って続きを聞くことにした。

「羅針盤は常に同じ方向を指し示すものですが、船は目的地へとまっすぐに突き進むわけではありません。風に煽られ、嵐に遭い、障害物を避けながら進んで行くものです」

「たしかに、社長がどれだけ芯を持った人でも、常に仕事が上手く行っていたわけではありませんでした」

「ブレることのない強力な指針を持っていることは幸せなことです。ですが目的に向かって進むあなたは、絶えず変化しているものです」

 そう言っている間も、老人の持つ竿から垂れる糸は、一向に揺れる気配はなかった。

「今も仕事から逃げ出している自分が不安で仕方がないんです」

 私は飲み込んでいた本心を吐き出した。

「羅針盤があるからといって、必ずしも目的地にたどり着けるわけではありません。困難が立ちはだかったなら、それを避けて寄り道するのは生きるための戦略です」

「でも、同僚は逃げずに仕事に戻って行きました」

「現実から目を逸らすために、仕事で紛らしているのかもしれません」

 私はその言葉にハッとなった。そんなことは考えもしなかった。

「羅針盤があったって、目的地が変わることは間違いではありませんよ。それに、あまり羅針盤に頼りすぎるのもよくありません」

「どういうことですか?」

「変わらないものに安心を見出し、常に変わっていくものに不安やわくわくを感じる人は多かった。ですが、今は変わらないことの方に不安を感じるという人が多いのではないでしょうか」

「社長はよく停滞は衰退だって言っていました」

「どちらが正解というものでもありません。変化から逃れることはできないし、それが苦しければ自分が次の変化を起こさなければいけない。そこには行動した結果があるだけです」

 私はこの老人の言葉に心を奪われていた。変化を起こすなら今だと思った。

「では、私はそろそろお暇しますよ」

 そう言って老人は竿を水面から引き上げた。

「だったらあなたに、新しい私の羅針盤になっていただけませんか?」

 私は意を決して伝えた。

「それは…、やめたほうがいいでしょう。私も老い先長くはないでしょうから」

 老人の竿の先には、針がついていなかった。


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