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旧制姫路高校のころ
昭和14年4月4日。礒永秀雄は旧制姫路高校に入学します。
支那事変が行き詰まり、国家総動員法が制定された翌年のことです。
戦時色が徐々に強まってきた時代で、高校への入学にあたっては色々な新機軸が実施されました。
新入生は、姫路市内に自宅がある者も含め、新入生全員が入寮生活をすることになります。
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制服は新調せず、中学時代のものを使うことが定められ、制服が黒以外の場合は学校の方で黒く染めるよう計らいました。
疲弊した服や破れた帽子が高校生のシンボルで、白線帽に憧れていた新入生にとってはショックだったに違いありません。
しかし先輩から譲り受ける帽子や制服は認められいたので次第に新入生の幼いスタイルは、各々が思い描いていた高校生のスタイルへと変わって行きました。
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また旧制姫路高校では昭和14年3月頃、戦時下の学生に長髪はふさわしくないという理由で断髪令が下り、昭和14年4月からは全学生が丸刈り姿になるのですが、昭和14年6月には政府機関によって学生の長髪は全面禁止とされ、日本から長髪の学生の姿が完全に消えてしまいました。
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新入生の教室の席はこの年だけ入学試験の成績順に配置されていたそうです。後ろから順番に配置され、一番前が留年組という席順。礒永の席は限りなく後ろの席だったに違いありません。
旧制姫路高校は日本一の名城「姫路城」のすぐ側にある高校。
高校の周りには畑が広がり、姫路城がよく見えました。
姫路市民は姫路に高等学校ができたことを誇りに思い、生徒を尊敬し大切にする市民の気風は、戦争そして廃校になるまで変ることがなかったと言います。
厳しい戦争の風が吹き込みつつありましたが、日常の学生生活にはまだ古き良き時代の空気が残っていて充分青春を楽しむことができたと思います。学生たちは、朝な夕な美しい天下の名城を見上げ、古い歴史を思い、
深い町の文化性に浸って多感な青春の胸を高鳴らせたに違いありません。
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秀雄は夏休みになると室積の親戚の家を尋ねて過ごしていました。
当時の室積は何キロも続く白砂青松の風景がとても美しく、県外から臨海学校に訪れる高校が何校もあり、海は大勢の観光客で賑わっていました。
秀雄も夏休みの期間になると室積を訪れ、海辺の暮らしを満喫していたのです。
昭和16年の暮れに太平洋戦争が始まりますが、将来の懸念を持ちながらも緒戦の勝利を喜んでいるうちに卒業を迎え、昭和17年3月、各人それぞれの大学へと巣立っていきました。
礒永秀雄も東京帝国大学美学科へと進学するのでした。