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宇品から 南の島へ

1943年(昭和18年)11月末。仁川の両親たちと別れた秀雄は、戦地に向かう輸送船の待つ広島県宇品港に向かいました。

宇品港は大型船が運用できる港として1889年11月に竣工した港です。
1894年7月25日に日清戦争が始まると、同年8月20日には山陽鉄道広島駅~宇品間を結ぶ宇品線が開通。
その後,宇品地区には、
1902年には陸軍運輸部(陸軍の船舶および鉄道輸送)本部。
1905年には広島陸軍被服支廠(兵士の軍服や軍靴、日用品などを製造)。1906年には宇品陸軍糧秣支廠(兵士の食糧、軍馬の飼料などを製造)。
など陸軍の施設が次々と設置され、日露戦争(1904年〜1905年)から太平洋戦争(1941年〜1945年)の時代にかけて我が国の重要な軍用港へと発展して行きました。

宇品港1945年頃

礒永秀雄は1943年(昭和18年)12月1日。陸軍2等兵、船舶工兵第1野戦補充隊員として正式に入隊します。

1943年12月10日。鉄条網の塀で囲まれた宇品港の広場に集まった学徒兵は官給の支給品を受け取りました。用意された被服はどれも夏服ばかり。支給された軍靴は一回り大きいサイズ。怪訝な顔をする学徒たちに対し上官は「靴に足を合わせろ」と言います。
冬のさなか夏服を着せられた学徒兵3千名は宇品港を出発。船舶工員として現地教育を受けるためフィリピンのセブ島へと向かいました。

輸送船は狭く、畳1枚の広さに数人が詰め込まれ、重なり合うようにして暮らさねばなりませんでした。自ら戦争を志願した学徒兵など皆無です。学徒兵だけの船内では本音を話すことができました。
軍歌『暁に祈る』を
「ああ騙された騙された。
手柄立てよと東条が……。」
と替え歌にして狭い船内割れよとばかり歌い続ける学徒兵たち。どうにもならない抵抗の表れでした。

セブ島に向かう途中、パラチフス患者が出たため輸送船はマニラ沖で一時隔離を受け、12月23日には全員がマニラに上陸。病舎で保菌者を調べると同時に輸送船の船内は完全消毒されました。

2週間ぶりに踏んだ異国マニラ。そこには内地では見たことのない真っ赤な花が咲いていました。昼間は鮮やかな美しさで招き寄せながら、夜になるとすっかり異なる深い赤色を見せてくれる花。ハワイ生まれの日系二世の戦友がこれはハワイの国花、ハイビスカスという花だと教えてくれました。

赤き花に寄す
…………………………
風立てば花も翳(かげ)りて
毒だみし闇の五辧花(ごべんばな)
愛憎の炎の色か
ひた向ふわが眼(まみ)を射て
転瞬に相(すがた)変へつつ
くろぐろと黙(もだ)し終んぬ

 今しばしかの花の色
 かへさばやかの花の色
 嘆かひは故山にかへる

礒永秀雄にとってハイビスカスは生まれて初めて詩らしい詩を作らせてくれた思い出の花でした。詩の結語には、家人に連絡のすべもなく南方へ追いやられた切実な思いが溢れていました。

上陸の翌日はクリスマスイブ。
宿舎とは名ばかりの倉庫の窓からはマニラの町が見えました。
車の矢の一本一本が色とりどりに塗られたカレッサと呼ばれる涼しげな馬車が気ぜわしそうに行き交っています。
行き交う車どうし、ハンカチを振ったり手を振ったりしながら
「Maligayang Pasko(クリスマスおめでとう) 」
「Maligayang Pasko(クリスマスおめでとう) 」
とタガログ語で楽しげに挨拶を交わします。
車輪は絵日傘の様な美しい色でくるくる回り、仔馬の鳴らす鈴の音と蹄の音が遥か遠くに鳴り響きます。日本が統治して3ヶ月ほどのマニラの町には平和な光景が広がっていました。

1944年1月9日、マニラを離れた学徒兵は、1月14日にセブ島の南端リロアンに到着し、船舶工員としての現地教育が始まりました。

到着した中隊は約3000名。8班(各班約375名)に分けられています。
訓練は激しく体力が奪われました。毎日の食事は腹の足しにもならないわずか3切れの患者食の様な味の甘芋や、硬くて噛みきれない少量の水牛の肉など、満たされない食事が続きます。

2月が終わろうとするある日、中隊全員に作文を書く様、命令が下されました。同盟通信社という新聞社が前線の学徒部隊の実情を銃後の国民に伝えるための資料に使う作文ということでした。

中隊長に「佳作は同盟通信の特集記事に組まれて日本の津々浦々に配られ、中隊の名誉にもなる。軍隊の序列には関係しないので気兼ねは一切いらん。」と言われ誰もかれも熱っぽい思いで筆を運びました。それは別れた内地の人々に現在の自分の様子を伝える数少ない手段だったからです。兵舎は屋根にヤシの葉を葺いただけで机も無い建物だったので、ある者は床に腹ばいになり、ある者は膝に雑誌を乗せてその上で作文を書き上げました。

それからしばらく経った2月のある日、秀雄は中隊長に呼び出されます。きっと何か叱責を受けるに違いないと思いながら中隊長のところに行くと、「今からお前は中隊の代表として少尉に引率されて将校集会所の座談会に出席してこい」と命令を受けます。
最初から戦争には見切りをつけ、生涯ずっと一兵卒で通そうとしていた自分が、中隊を代表とする兵士であるとは思えず、
「自分はそんな柄じゃありませんから、誰か他の優秀なものと替えて下さい。お願いであります。」と辞退を申し述べますが、
「遠慮せんでも良い。新聞社の方々がこの前書いた作文を見て中隊全員の中からお前を選んだんだ。行って思う存分喋ってこい。」と中隊長から参加する様、促されました。
代表には選ばれはしたものの、幹部候補生試験で優秀な成績を納めようと務めている者の中には、羨望や妬みの眼差しを向ける者もいたはずです。

中隊から三百メートルほどの将校集会所には新聞社の2名と中隊約3000名の中の8班の各代表者8名と各少尉8名が集まり、代表者と少尉が交互に座るという堅苦しい雰囲気の中、座談会が始まりました。
取材のテーマは「学徒兵のその後」というものでしたが、少尉に挟まれて座った学徒兵の口はとても重く、自由に意見を述べる様な雰囲気ではありません。みんな当たり障りのない覚悟のほどを述べるなど出来るだけ無難な発言をしました。

発言の順番が礒永へと回って来ました。
「僕は、いや自分は……別に意見はありませんが……。」

言うのをためらいましたが、しかし、このことだけは言っておく必要があると思い、思い切って言葉を続けました。
「学徒動員について一つだけ納得のいかない点がありました。自分たちは文科の学生であるがゆえに動員を受け、理科の学生は学園に残るという、そのことであります。同じ学問をする身に変わりはないのに、文科が理科と差別されることはあり得ない、というのが当時の大半の文科の学生の感情だった様に思います。今では無論そんなことを考えたりする余地もありませんが、だから例えば日本に残っている理科の学生諸君にぜひこれだけは伝えていただきたいのです。同年輩の文科の学生たちは学問の自由を奪われて前線に出ている。軍隊という組織の中では、激しい訓練のため、自由にものを考えたり深く思いを沈めたりする余裕など殆ど与えられない。だから学園にある諸君は、僕たち文科の学生の分まで、十二分に学問に励んでいただきたい。と、そういう気持ちがしきりなのであります。」
他の代表者たちも共通した思いだったはずですが、少尉のいるこの場で賛同の声を上げることはできませんでした。

「幹部候補生についてどう思ってますか?」と言う記者の質問に対しては、「興味ありません。一兵卒で通す覚悟です。自分などが若し将校になったら、ろくな指揮はできません。つまり多くの兵士の命を預かって犬死させるような不忠を犯すよりは、叩かれながらでも兵卒で通した方が身のため、国家のためだと思うからであります。」
と答え、隣の席の秀雄を引率している少尉の機嫌を損ねます。

「銃後の皆さんに伝えたいことは何かありませんか?」と言う質問には、「贅沢なお願いかも知れませんが、お伝え下さい。自分たちは読むものに飢えています。ですから学徒兵への慰問袋には文庫本を一冊入れてくださるように。岩波の青帯か、でなかったら万葉集を。それからみなさんにお伝え下さい。僕たちは皆さんの期待通りきっと再び学園に戻りうる平和の日の到来を信じています。今はただ、学問を通じて国家の発展に挺身出来る日の近からんことを願いつつ軍隊で頑張っていますと。」

秀雄は、学徒員が抱いている、生きて帰って学問を続けたいという真実の思いを勇気を持って発言しました。
しかし新聞社が秀雄の声を記事として取り上げることはありませんでした。新聞社側が望んでいたのは、銃後の国民に対して、国に命を捧げる勇ましい決意の言葉だったのです。

その後、セブ島での訓練は4ヶ月以上続き、1944年6月30日にセブ島を出発。1944年7月5日に配属先の戦地、ハルマヘラ島のヘヤオールへと向かいます。戦況は悪化の一途をたどっていました……。

















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