あいつ
────幼年のころ────
馬は 笑うのだそうである
あいつは そう信じている
耳をひくひく動かしてみせながら
「馬は笑うぞ」と
また ささやきに来た
〇
あいつは 五つか六つのころ
鳶職のおやじといっしょに流れてきた
おふくろのことをたずねたら
「東京に待たせてある」といった
「おまえ とし いくつだ」ときいたら
「さあ 五つか六つだろう」と
よそを向いて答えた
それから 短いオナラを一つして
こっち向いて ホウ と笑った
〇
あいつは
なんでも食べる
みんなの前で
線香を一本とクレオンを三センチ
塵紙と炭をたべた
あくる日 下痢をした
「ほら みろ」といった
「いや あとで花を食べたのがいけなかった」と
むねをそらして答えた
〇
あいつは
馬小屋のようなにおいがした
それを言うと
馬糞紙を一枚 パンの代わりに食べるから
しかたがないということであった
栄養になるともいった
裏の垣根には
いつもあいつのふとんが干してあった
〇
あいつのところに
おふくろがきた
色が青黒くてなんにもせず
キセルでタバコばかり吸っていた
東京のおふくろではなかった
せきばかりして病身だった
しかし
お医者が来るでもなし
あいつが薬を買いに行くでもなかった
「お客さんさ」とあいつはいった
それでもおふくろはあいつをいつも呼びすてにした
あいつは「はい」「はい」といって
米をといだり 飯を炊いたりした
〇
あいつは
「おれ サーカスに売られるかもしれない」といった
「さっき しかられて そういわれた」
両手両足しばられて
天井からさかさに吊るされて
おしりをおやじにぶたれた」といった
「おふくろさんは」と問うと
「だまって見てたね お客さんだから」と
ませた口をして答えた
手首にも 足首にも
しばられたあとはなかった
あいつは
逆立ちや トンボ返りがとてもうまかった
「行くなよ サーカスなんかに」というと
「そうだな あれがあるからダメだ」といって
紙袋をふくらまして パーンとたたいて割った
〇
あいつは 女の子がきらいだった
「おふくろのにおいがいちばんいい」といった
それは
キセルと花札のすきな『お客さん』でない
東京のおふくろのことらしかった
〇
あいつは とつぜんいなくなった
おやじさんもいなくなった
「とんだんだよ」
『お客さん』はキセルをたたいてそういった
「あいつだったら とべる」と思った
初出不明
『礒永秀雄選集』(1977年*長周新聞社)