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ネット世界の愛情について
11/5、愛するということ
自分の領域を相手に広げてしまう人の話
フロムの「愛するということ」の日本語訳を読んだ。時代もあり引っかかる部分があるものの、学びが多いものではあった。
「愛は技術だ」という主張の他に「愛するには信頼や責任が必要」などの話も出てきて、いまさらながら愛って何だろうと思った。
会社はアレだが私の友人たちは温かく相手を思いやる愛に満ちている人がたくさんいる。
この前生まれたご縁を例に挙げる。nerholとの食事会の際にお会いしたマダムが身体のことを心配してくれて、いい方向へ向くようにヨガを教えてくれた。僧侶の旦那様もアーティストのために作品と対話する空間を作ったり、若いアーティストを支援している。
一方でネット世界はひどく傷が多い世界であると感じる。特に最近何があったというわけではないが、特に同人界隈に参入してから感じる。
ニュースでは取り上げられた人を袋叩きにし、同人界隈で言えば推しを愛する一方で、他の活動をしている人を嫌いになり、その相手を平気で傷つける。
この文章をタイプするのが容易なように、相手を傷つける言葉も簡単に世界へ送ることができる。
余りにもネット世界に思いやりがないような気がして悲しい。すぐに送れる文字だけのコミュニケーションの闇を見ているようだ。
言葉を送る相手の事を傷つけることを想定していないのか。あるいは想定して言葉を紡いでいるのか。
フロムはともかくアドラーの「行為のレベルで見るのではなく存在のレベルに価値がある」という考え方が好きである。しかし、全員がその考えに賛同するわけもなく、そうだったとしても理想論だと笑われるだろう。
しかし、フロムやアドラーのいた時代は無論インターネットなどは無く、コミュニケーションを取るとしても最低手紙や電話だったはずだ。
偉大なる彼らがこの時代にいたのなら、同じことを言えただろうか。
考える時間や声に感情が乗せられたため、今よりはいがみ合いなどは無かったかもしれない。
他人に期待することは今ではナンセンスであるとも感じる。
相手に自分の理想像を重ねるだけでなく、押し付けてはいけないと思う。
ほとんどの人は傷つけ合いたくないと思っていると信じているが、そうなるには程遠い。多少はSNSのいがみ合いも適応する必要がある。
しかしそれで生まれた縁もある為、距離を取りながら大事にしたいと思う。
どうか皆様も無理しないように。
11/6追記 ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい
他人の領域を自分に入れてしまう人の話
ぬいぐるみとしゃべる人はやさしいを見た。アセクシャルの主人公ということで私のセクシャリティと一緒である。主人公はノンバイナリーの見方もあり、そこも一致している。ただ、どちらかと言うとセクシャリティより登場人物の繊細さのほうが共感できた。
ぬいサーの人たちは本当に優しく、他のアセクシャルテーマの映画のそばかすよりだいぶ癒される。これくらいの優しい環境はあっていいと思う。
最近もこもこしたぬいぐるみを描いてて、癒された。私もぬいぐるみに話しかければ癒されるのかな。
私もかなり繊細な方であるかと思うが、主人公たちは更に繊細である。こうなると生きていけないラインな気もする。
結局、ぬいサーの人たちは優しすぎて自他境界が曖昧だ。自分は優しいからいいやということに甘えては行けないところもある。
余りにも優しいということは良いということに寄りかかってはいけない。優しいということがもっと否定される世界ならよかったかもしれない。
だが、私はこういう世界が好きだ。私の周りにもいる。
それでも生きていかなければいけないんだ。