落合陽一展「万象是乱数トヌル」落合氏によるアーティストトークの備忘録+α
1/6(土)にワタリウム美術館のミュージアムショップ「オン・サンデーズ」で落合氏による展覧会の解説があった。今回前回の記事で紹介した作品を購入したということで参加する機会を頂けた。
しかし、言っていることが正直かなり難しく、必要な知識もかなり多いため、一度内容を咀嚼する必要があった。それをここに記述する。今回同伴した友人はコンピューターサイエンスに割と詳しい方だったので本当に助かった。私だけでは無理だ。
おそらく大丈夫と思うが、すべて専門外なのであまり信用しないでいただきたい。後、落合氏が発言した通りの順番で話すが、オブジェクト指向菩薩さんから電話がかかってきて話が中断されたところが多い。つながりが悪いところが多いと思われる。
落合氏による万象是乱数トヌルの解説
今回のテーマは「真言密教とベクトライゼーション*」「民藝と構造主義」である。
構造主義が日本の哲学的体系に入ってきたのは真言密教からで、空海の声字実相義**で示される。真言密教は印を結ぶことで仏と同一化しつつ、声や意味を唱え、凡人に届ける。
オブジェクト指向オントロジーはあらゆるオブジェクトは無限の深みを持っている。
オブジェクトがもつ可能性は無限大にあり、網羅しきれなかったが、昨今コンピュータが大量に普及されているため、記述不能ではなく、無限の記述を持つことになった。
今までは人間主義的な観点から見た構造主義だけだったが、オブジェクト中心の構造にしたのが今我々の目の前にあるのは計算機指向のオントロジーである。これを我々は微分可能性とかコンピュータの微分モデルとかという。
そのような計算機中心の仏教とは何なのかということをひたすら行っている。
作品の中には、歴史物とそれをオブジェクト指向菩薩が語り続けるカセットテープがある。
人間ではなくAIが語っているため、コンピュータ中心で物事を考え、人間中心主義ではなくなってくるのは、東洋的な仏教哲学と近いのではないか。
民藝は社会的な規範がオブジェクトにインプリントされている。オブジェクトの中に内包される倫理がこの社会を形成する。
社会彫刻として存在しない個々のオブジェクトによって規範や倫理が作られている。
それを人間が介在することなく、計算機が自発的に転がる形(計算機自然)で対話を続けていく。
波、形、オブジェクト、オブジェクトのベクトライゼーション、計算機自然とはなにかということが相互依存的に存在している。
*自然言語をベクトル化する事らしい
**我々が考えるものは声・字・実相で表されることらしい
以上。理解できただろうか。私は半分ぐらい理解できたかと思われる。人間が介在することなく、計算機が自発的に考え続け、やがて計算機中心の考えになっていく。面白い。
正直最低限コンピューターサイエンス・真言密教・民藝・アートの知識は必要かと思われる。私もまず真言宗を勉強しないといけないことに気が付いた。仏教は臨済宗で主に学んでいるが、真言宗は仏教の中でも異彩を放つため、それも個別で知識として必要である。
好きなことを深く知るために新たなことを少しずつ勉強する。これこそ学びの醍醐味だと思われる。楽しい。
その他落合氏関連の考察
アンドロイドは人間の夢を見るか?
落合氏のことは知ってから間もないので勉強中である。その際に見たyoutubeでゲンロンの東氏との対談があった。その時に気になったのは氏が「人間は相手が人間じゃないと気が済まない性質があるのでは」と話したことである。
この問題は本当に興味がある。確かに我々がChatGPTと話している時と、人間と話している時は感動が違うと思われる。しかし、最初は人間だと言い聞かされていてAIと会話していたならどうだろうか。その後正体を明かされても全く感情が変わらないという人はニーチェの超人くらいではないか。
一方で、LOVOTというロボットが存在する。触れ合ったことがない方はぜひ体験してほしいが本当にペットみたいな感覚になる。そこにあるのはAIだとわかっているのに、愛情を持ってしまう。
うまく表現できないが、私は人間が愛着や感情を動かされるものの境界を知りたい。AIと人間の違いとはどこにあるのだろうか。どの程度代替できるのだろうか。
その他解説会雑多
研究とアートの主観性について
研究大好きマンの友人が落合氏に興味深い質問をした。下記に示す。
Q.アートだと主観が重要観されて、アカデミックだと主観を排除して議論をしようとしている。両方やってる落合氏はどうやって考えてるか?
A.ファーブル昆虫記などもそうだが、学術だと客観的にやっているようで主観でやってる完全に別かれてるわけでない。テーマ選びも主観だし、興味のある分野も主観。
私が購入した作品について
前回書いた記事で購入した経緯を直接落合氏に話したが、おおよそ意見が一致していた。やはり人間は神が宿ったものでなかったとしても、神的なモチーフなどに行動を制限されるとのことである。コンピューターはどうだろうか。神的なものを理解し、祈る時代が来るのだろうか。
また余談だが、落合氏に解説してもらう際に、購入者であることを申し上げた。その際に周りがざわついたようだ。理由は様々だろうが、おそらく私自身若いからということもあったかもしれない。実年齢よりもさらに若く見られ、大学生かと思われることもある。個人的にこの考え方はあまり好きではない。大きいアートフェアに行ってもほぼ相手にされない(特にセカンダリー)。もちろん1000万などの作品は難しいが、資産であることは理解しているため、ある程度の値段でも気に入ったものがあれば購入する(その時貯金があれば)。若いから相手にされないと決めつけるのは良くないかと思うが、今後のアート市場のためにも若者にも積極的にアピールしたほうがいいと思われる。資産だと理解すれば若者でも買うだろうし、理解しなくても若者の時から触れていたら中年になり趣味として購入することもあるかもしれない。その種を育てないとアート市場も廃れる。因みに落合氏、ギャラリーの方は一人のアートコレクターとして対応していただけた。感謝します。
…と思想が強く出てしまった。日本のアート市場がもっと活発化することを願う。