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幸せの分解と比較

人それぞれ”豊かさや幸せ”というのは
さまざまな条件から感じれることだが、
運よく自然に得たもの
家族や他者や環境から捧げられたもの
自身で勝ち取り成し得たもの
などが挙げられる。

どれだけ豊かな資産があり恵まれていても
満たされないと言う人も居る。

他者に幸せそうだと言われたとしても
自覚がない場合もあるだろう。

読者が現在幸せかどうかは私にはわからないが
「私は幸せなのかわからないが、不幸だとは思わない」というのが最多であると予測する。

他者の幸せを気にかける余裕ができた時、
それ以前に自分は幸せなのだろうかと
一度疑えば
「幸せなはずだ」「今は幸せだ」
と思い込めても到底それを他者へ証明などできない事に気づく。

つまり自己評価で自己決定するほかない。
しかし個人の評価だけで幸せを定義することはあまりにも無意義だ。

他者と共有しあえる幸せと、個人の幸せとの
バランスが取れている事が
”本当の幸せ”で互いに証明しあえるのではないかと思う事もある。
加えて一時的な幸せではなく恒久的で持続する幸せを幸福というのだろうか。

私はこの集合体における相対的幸福感と個人における絶対的幸福感を比較考察し、思考の整理をする。


数字の呪縛と恩恵

数字を用いて目的を持つ時、人は自らの目的であるにもかかわらず意図せずとも数字に翻弄されることがある。
達するか否かで成功と失敗が決まり、
数字がそれを決めるのだ。
すなわち、数字を用いるということは
数字に支配される。

時間を決めて行動する時も同じく、時間に支配されている事もあたりまえになり一般的だと判断し大多数はそれに違和感を感じなくなる。

目標値を設定する事で達成すれば幸福感を得る事ができる。
さらには脳科学の観点からだと目標値が高く達成するまでのプロセスが困難でストレス値が高いほどA10神経系が活発になり高揚感が高くなるとされている。
目的やゴールを決め指標化するのは合理的な思考で、他者との共存や社会活動において必要不可欠な事である。

それを理解しているが故に私も時間通りに行動し目的を決めて達成感や幸福感を得ている。

しかしながら私は何かに支配されているような感覚にひどく違和感を感じるのだが、
売り上げや給料が上がったり、ゲームで1番やテストで100点を取る事は多幸感がある。

矛盾しているが数字に支配される事で幸せを感じているのである。

一方で時間や目的を決めず気の向くままに自転車や車で景色の良い気持ちいい道を走ったり買うものも無いのに街を探索しガラスケースの中を眺めたり、あえて遠回りするといった”無駄や余計”も楽しくて仕方ないという人も少なくは無いかと思う。

つまり数字や目的を用いて得れる幸福感と数字を必要としない幸福感がある事がわかる。

数字を用いる幸福感は多くの人と共有しやすく指数化でき可視化もできるが、数字無しの幸福感は指数化ができない。

例をあげるとすれば
A)数字を用いた集合体としての幸せ
仲間と目標を決めて調理したカレーがイベントで1000杯完売し利益が出ると仲間と喜びや報酬を分け合う事ができ、食材や場所を提供した者にも影響がある。
また、翌年チームも増員し単価も2倍にして5000杯完売するとどうだろうか、前回よりも指数は上がるはずだ。

B)数字を不要とする個人としての幸せ
1人で輸入食材を厳選駆使し辛口で人を選ぶが一般のカレーを上回る技術で時間をかけたスパイスカレーを作ったとして、それを自信で食べる美味しさや喜びをA)と比較するとどうだろう。

どちらも幸せには変わりないだろうが、前者A)が大きな指数になることはわかる。

数字や目的を用いた行動にはリスクが伴いもしイベントが大雨で集客できず大赤字だとすると苦労した上に食材をロスし残念な気分になるだろう。
それも良い思い出だと言える人もいるだろうが損失は容赦なく襲ってくる。

反面スパイスカレーは個人の幸せのために美味しいカレーを追求したいだけで、とんでもなく不味いものができても調理した側はおそらく教訓にするだけでそれ自体も楽しむであろう。

ここでわかることは、集合体としての幸せというのは関係する者全てに作用と変動があり不安定になりがちだが、個人としての幸せはコントロールが容易だ。

仮に自己満足B)のスパイスカレーがSNSに投稿したところ見栄えがあまりにも良く拡散され世界中から数千万と評価されたとしよう。

美味しそう、作ってみたい。
など興奮や好奇心も幸福感とするのであれば後者がより他者に貢献したことになる。

このBケースの自己実現は幸せを物差しで測る事は難しいがAケースにおいて数字で現れてしまうと多くの人々はそれを基準に評価できてしまう。

どちらがすごいか、どちらが幸せか、などは本来誰も決める事ができないはずが無意識のうちに数に囚われ自分の指数を計ってしまうこともあるだろう。

自身の価値観が唯一無二であるべきと同時に周囲との共存や調和を求められる環境や可視化社会において、個人の幸せを意識するべきか集合体として意識するべきかの向き不向きはあるとはいえ、どちらも意図的にバランスよく得ようとするには価値観を状況に合わせて変化させる能力が求められるため、一筋縄ではいかないように思う。

あくまで個人の見解ではあるが集合体における相対的幸福感に関して、
例にあげたカレーABのジンテーゼとして
リスクは承知の上で少数の友人と
こだわりのオリジナルスパイスカレーを
三日三晩仕込んで10000杯無料で配る。
(無料で配る事が目的)

または、家族で一人一人が好きな具や調味料を提案し分担してカレーをつくり同じテーブルで同じ窯の飯を取って食事をする。

これらがより多幸感を共有できるのかもしれない。

さて、数に支配されながらも他者と調和し大きな数を出すこと。

何にも支配されず、個人を追求しちいさな喜びを感じること。

幸せを分解し比較てみたが、
どちらが良い悪いではなく幸せは誰もが選択できるものであり、
幸せの価値観は自信で管理ができる。

なにより比較することでも無いのであろう。

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