「川上とこの川しもや月の友」と芭蕉は詠んだが、行徳から江戸市中に塩を運ぶために家康が開削させた運河である小名木川の、いったいどちらが川上で川下なのか、深川で暮らし始めてからぼんやりと疑問に思っていたことを口にすると、女が当たり前のようにそりゃああなた、中川の方が川上に決まっているじゃないと言う。自分は、つまり芭蕉翁は隅田川の辺に暮らしていてちゃんと「この」川下とことわっているし、それにね、「礼儀として友達を下に置くわけがない」とのことだった。なるほど、一理ある。なぜ気づかなかったのかと恥じ入るばかりだが、ひとつ弁解させてもらうと、そもそもこれはぼんやりとした疑問であって真剣に読み解こうとしたことはなかった。句の前書きに「深川の末、五本松といふ所に船をさして」とある、その五本松跡の近所のアパートに住んでいるのでなんとなく覚えていただけだ。じゃあその川上の友達ってのはいったい誰なんだろう、と悔しまぎれに呟くと、
「そんなのあたしが知ってるわけないじゃない」と、また笑われた。
西の空に、その月が残っている。月はもちろん秋の季語だが、今朝は冬らしく寒々と冴えわたっている。この季節、朝の散歩はまだ暗い時間で、部屋に帰り着く頃になってようやく白白と明るくなる。
「でもね、芭蕉にとって月はとっても重い季語だったと思うの」
小名木川沿いの道は萬年橋の手前で途切れてしまうので、路地を迂回してまた流れに戻る。戻ったところはもう隅田川との合流地点だ。芭蕉庵の跡地で翁の銅像が美しい清洲橋を眺めているのが見える。月島方面のタワーマンション群の灯りを映した隅田川もまたどちらへ流れているのか判然としない。
「俤や姥ひとりなく月の友、っていう有名な句があるでしょう」
「信州だね」
姨捨山よ、死んだお母さんのことかもしれない、いずれにしろ、芭蕉が月を詠んだらそれはもうただの月じゃないのよ、重たいのよ、だからその友達も、「きっと」と女は言葉を切って、川下へと目をやった。
「月なら後ろだよ」
そうではなかった。どこかでサイレンが鳴っているのだ。
「火事かな」
けれどその音色は、おそらく消防車ではない。
「近づいているね」
「あ」と、先に気づいたのは女だ。金木犀の香もそうだった。いつだって彼女の方が先に気づく。
船だ。
「警察だね」
警備艇のようだった。消防車のサイレンを少し甲高くしたようなけたたましいサイレンを響かせて、隅田川大橋を潜り、川の流れを引き裂いて、それはだが一隻だけではなかった。後ろからもう一艇、まるで競艇のように追いかけてくる。甲板にスノーケルを咥えたようなダイバーらしき人影。ひどく禍々しい。
「事故かな」
「どうだろう」
「なんの話しだっけ」
「芭蕉よ。芭蕉の月」
清洲橋の上から、上流へと急ぐ警備艇を見送った。少し遅れてさらに一艇、今度はもうサイレンも鳴らさず、大して急いでもいない様子だ。同じころ、どこかで救急車が走っていたがそのサイレンもやがて鳴りやんで、隅田川に朝の静寂が戻った。江東区側のビルに切り取られた夜空が白白と明け始める。
川岸に整備された遊歩道を歩きながら、ふたりで朝食のメニューについて話した。いつもどおり納豆と目玉焼きの和食が良かったが、女は美味しいパン屋さんの開店時間がもうすぐだからそれを待とうと言う。おかげで、いつもより遠くまで歩くことになった。
月はもう沈んでしまったのか。警備艇やサイレンのことはすでに忘れていた。そのまま忘れてしまえるはずだった。まるで無関係だし、なにが起こったのか知る術はなく、いや、むしろ知りたくもなかった。
関東大震災の時には唯一の鉄製だったから焼け落ちず、お助け橋とも言われるほどに人命を救った新大橋を潜り、両国橋の先で合流する神田川にかかった柳橋を渡る。花街として栄えたその辺りには今も屋形船と船宿が連なっていて、その風情が朝の光に浮かび上がってくる様子は大変に好ましい。しばし江戸情緒に浸り、芭蕉翁に倣って俳句など吟じてみたりしながら、総武線の鉄橋の辺りで再び隅田川沿いの歩道に戻り、さらに蔵前橋を過ぎて厩橋の手前だった。数人の警察官が慌ただしく動き回って、ドラマや映画でよく見る黄色い規制線が張られているその中に、ブルーシートがかけられて横たわるもの。見てしまった。ブルーシートの端からのぞく靴下を履いた足の裏。男性、のようだった。
無言で通り過ぎた後で、女が言った。
「あれ」と。
「かもね」
そう答えて、歩き続けた。
すっかり明るくなって、明るくなっても帰ってこない人を待っている誰かが川上にいるのかもしれない。あるいは、そのような誰かなどいない人なのだろうか。濡れた靴下が冷たそうだった。
よく晴れた青空に厩橋を見上げて、
「パン屋、もう開いてる」と、訊ねた。
和食じゃなくていいの、と今さらながらに言う女の声を聞き流した。
寒い朝だ。