石をいだいて沈む
曰く遂古の初め、誰か之を伝え道える。彼はまだ仄暗い汨羅江(べきらこう)の辺で呟いてみるけれど、その声は茫漠とした川霧のなか寄る辺なく漂うばかり。彼の高い教養や理念など、今のこの国では必要とされないのだ。まして詩心など、いかに美しい言葉を並べたとて、誰の胸にも届かない。ならばこれ以上、こんな辺境の地で生きながらえることにいったい何の意味があるだろう。思えば若かりし頃、戦乱の祖国を思い、祖国を憂い、仲間たちと熱い議論を重ねた日々もあった。彼の揺るがない信念は剣のように強固で周囲を傷つけもしたが、その分誰よりも深く思考し、研鑽を積んできた。だからこそ王から徴用もされ、国を正しく導ける力を手に入れたのだ。実際、大国の武力に依存するのではなく、他の国々と連帯し共存する道を探るべきだという彼の理想は決して間違ってはいなかったはずだ。その圧倒的な正しさが、王の気に障ったのか。いや、そうではない。全ては彼を蹴落とさんとする上官大夫と王の情婦、鄭袖の策略だったが、まさか王が、敵国秦に操られ、利権と愛欲にまみれたあのふたりの讒言を真に受けて自分を遠ざけるとは、思いも寄らぬことだった。媚びへつらう能無しどもばかりを侍らせ、得意になっているような暗君に公正な政など、端から望むべくもなかったのかもしれない。悪いのは活舌ばかりではなかったようだ。だが、だからといって秦に騙され、ついには客死した王の哀れな末路を自業自得だとも思えなかった。そうしてかつて忠誠を誓った王はすでになく、楚もまた滅びようとしている。今や彼に残されているのは一遍の詩句だけだ。なにもかも失ってしまって、絶望の淵にいる。川面でなにか大きな魚が跳ねたようだが、ただ幽かな水音が聞こえるだけでその姿は見えなかった。
やがて曙光が霧を払い始めると、いつの間に湧いて出たのか、幾艘もの小舟が川面に浮かんでいて彼は驚かされる。漁師たちが投網を用い、漁をしているのだった。ついに郢都も攻落されてしまったというのに、人々の営みはこうして連綿と続いている。為政者が誰であろうと、たとえ国の名前や仕組みが変わってしまっても、人はとにかく食べていかなければならない。詩や思想で腹は膨れない。齢五十を超えてからの流浪の身には堪える現実だった。そのような現実を生きる力を、彼はもはや持ち合わせてはいなかった。
「なにも珍しいことではないよ」
ふいに声がして、それは白髪白髭の痩せ細った老人だった。長い旅の間に彼もまた随分と窶れてしまったが、老人はそれ以上に肉が削ぎ落とされ、というより生まれてこの方、無駄なものはなにひとつ身体につけたことがないように思われた。釣り竿と腰に下げた魚籠以外には粗末な布切れ一枚纏っただけの格好で、年の頃なら八十前後。むろん、彼に面識はない。
「なにがです」と、果たして自分に向けられた言葉だったのかと訝りつつ、彼は訊ねた。
「謀や裏切りは今に始まったことではないし、正しいことがいつも受け入れられるとも限らんでしょう」
そもそも世の中が理不尽なのではない、理不尽な場所を人は世の中と呼ぶのだと、老人はまるで、彼の心中を見透かすように言うのだった。
だが、彼にはそのような考え方はまったく許しがたい。子供の頃からそうだった。曲がったことが大嫌いで、間違ったことには決して従わぬ少年だった。やってもいない桃泥棒の罪をきせられた時の悔しさなど、旅の褥の徒然に思い出して煩悶とする夜がいまだにある。
「誰かが不当に利を得たり、罰せられたりするのは間違っている。反対に、認められるべき人は正当に評価されて然るべきではないのですか」
彼はそう詰め寄りながら、一介の漁師に、こんなにもムキになっている自分が可笑しかった。
「なるほど」と、老人は頷いた。「あなたはおそらく、大変難儀な生き方をされてきたのでしょうね」
徐に腰を屈め、釣り針に餌を、おそらくはミミズを刺すと竿を軽く振ってそれを川面に投げ入れる。彼はそんな老人の動きを見届けてから、
「それはそうです」と、丁寧に言葉を選んだ。「この国は上から下までなにもかもが濁りきっているのに、私だけが澄んでいる。誰も彼も現実から目をそらしていまだ夢のなかにいるのに、私だけは醒めているのだから」
自分が放逐されたのはそのせいだと、彼は考えているのだった。
老人はそれを聞くと、憐みとしか言いようのない表情を浮かべ、深く刻まれた目尻の皺にそって大粒の涙を溢して言う。
「あなたも、釣りをしてごらんなさい」
それでもしも魚が釣れなかったら、川が悪い、流れのせいだ、魚がいないとぼやくのですか、と。大いなる川と結ばれた一本の細い糸の先をじっと見つめて老人はさらに続けた。
「本当の賢人ならば世の中と共に流れていくものです。この国のすべてが濁りきっているならば、一旦そこに身を浸してみてはどうですか。その時、あなたが後生大事に抱えていらっしゃるその美しい石は、あなたを川底に沈めてしまうかも知れませんが」
老人の言いたいことは分かった。分かりはしたが、彼はそれを潔しとはしない。できないのだった。正義と信念を捨てるわけには、どうしてもいかなかった。そうして彼は痛烈に思い知る。本当に国を動かしているのは、王でも官吏でも、ましてや詩人などでもない。日々淡々とやるべきことをやる、こんな市井の現実主義者たちなのだと。あるいは彼がこの日、石を抱いて流れに沈むことを選んだのはこの老人のせいかもしれなかった。ある年の、五月五日のことだ。
彼、即ち屈原の入水自殺の報せは国中に響き渡り、多くの人々が競うように舟を出して汨羅江から長江に至るまでを捜索したが、ついにその遺体は見つからなかった。また、後の六朝時代の文語志怪小説集『続斉諧記』には次のように記されている。「楚人これを哀し、此の日の至るごとに、竹筒に米を貯え、水に投じて祭祀す」と。端午節に竜船を漕ぎ、ちまきを食べることの由来である。
楚は屈原の死後まもなく秦によって滅ぼされたが、彼の格調高い詩歌は今も色褪せない。