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彼女の知らないいくつかのこと

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一日一本書き下ろし短編小説。
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2020年4月の記事一覧

鶯色の村

鶯、囀り方が随分上手くなったわね、と彼女が言う。確かに。相槌をうって、僕らは家の近くの山道を歩いている。

築六十年の木造二階建てを役場から紹介され、この山村に引っ越してきたのが去年のちょうど今頃。所謂Ⅰターン、田舎暮らしというやつだ。ほとんど土地代だけの値段で買った家は築年数以上に傷んでいて、一年目はリフォームに追われ、とても春を愛でる余裕などなかった。役場が補助金を出してくれたが、それでも全て

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守られている女

尾行を開始して三日、これまでのところ特に変わった様子はみられない。彼女は毎朝決まった時間に地下鉄で出社し、ほとんど残業はせずに退社、再び地下鉄を使い、駅前のスーパーに寄って帰宅する。昨日は一昨日を、今日は昨日をコピーして貼り付けたような一日。違っているのは、昼に自分で作った弁当を食べる場所くらいのものだ。一昨日は会社の近くの公園で、昨日は川沿いの遊歩道のベンチ、そして今日は外出した形跡がなかったか

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猫の空き家

この界隈にはまだ木造の古い住宅が多く残っていて、昨今は空き家も増えた。公園の裏手にも一件、明らかに誰も住んでいない、いや、もはや人の住めなくなった廃屋があるが、そこでキジトラの大きな猫が暮らしている。木造といっても外壁は赤錆色のトタンで、ところどころ変形し、腐食して内側の木枠が露出がしてしまっている。猫が出入りしているのも、トタンが捲れたそうした穴のひとつだ。玄関の引き戸も外れてしまって、ただ立て

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いつも君がしていること

家族のために毎日買い物に行き、メニューを決め、一日三食作り続けている彼女は、誰かが自分のために料理してくれたものなんてもう何年も口にしたことがない。最後にそういう食事をしたのはいつだろうと、ぼんやり考えている。すぐには思い出せないくらい遠い昔だ。もちろん、レストランでオーダーすれば料理人たちが腕を振るってくれるけれど、それは厳密に言えば顔の見えないひとりの客のためであって、例えばこんな味付けは好き

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全部思い出した

彼女が生まれたのは沖縄の離島のその東端、空港や港からもっとも遠い集落だ。彼女が小学生の頃、1950年代の終わりにはまだ舗装された道など一本もなく、収穫したサトウキビを運ぶのは赤い土埃をたてる馬車だった。トイレは汲み取り式で、溜めた糞尿はヤギや豚の飼料として再利用された。主食のサツマイモはそれぞれの家の畑で作っていたし、海の状態が良ければ男たちが沖合の環礁まで船を出して追い込み漁をする。要するに半農

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結婚してください

結婚してください

御朱印を集めるのは彼女の趣味で、これまでに二百を超える寺社を巡っている。持ち運んでいる御朱印帳はもう十一冊目に入った。御朱印帳というのは概ね四十から四十八頁くらいの蛇腹式になっているが、彼女は時々、その表面しか使わずにきたことを軽く後悔する。全ての御朱印帳を携えてこんな山道を歩く時には特に。裏面も使えば半分の冊数で済むのだ。それでも表面だけを使い続けるのは、いくら裏写りのしない奉書紙とはいっても透

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設問が間違っている

その設問はあまりに理不尽で人権を無視しているし、不確定要素が多すぎるために答えられない。
例えば、仲間割れで殺された強盗犯の男と、病気で亡くなった少年、それに交通事故で不慮の死を遂げた婚約中のカップルが川の辺で出会う。深い霧が立ち込めるなかに射す光はあくまで薄く、朝といえば朝だがあるいは残照かもしれず、何もかもが朧で対岸は見えない。したがってそこが川だという確証は誰にもないのだが、渡守がそう言うの

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イキのいい水

こんな夏の日には、水道の蛇口を全開にしてしばらく水を出しっぱなしにするのが父は好きだった。今思えばもったいない話だが、そうしておいてから飲む水は確かに冷たく鮮烈で美味かった。水道管のなかで滞っていた生温い水が全て押し出され、町の北側に聳えるあの霊山から流れ出たばかりの新鮮な水に入れ替わる。水道水なので実際にはダムや浄水所などを経て届くわけだけれど、少なくとも父親はそう信じていたし、息子もまた、そん

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橋を潜る

週末を除く毎日、橋を渡って仕事場に向かう。駅から職場まで歩く途中に運河があって、橋はそこに架かっている。古くからある石積みアーチ橋だが、長さは十メートルほどしかないためそれと気づかぬまま渡り切ってしまうことも多い。もちろんなければ困るけれど、つまりはほとんど特徴のない、ありふれた橋だ。そう思っていた。

もちろん、帰りにも同じ橋を渡って駅まで歩くのだが、ある日、同僚の女の子とたまたま一緒に帰ること

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The Empire of Light

マグリットの絵の前にひとりの男が佇んでもう随分時間が経つ。絵を傷つけるとか、ましてや盗むなどということを心配していたわけではないが、どうにも気になって仕方がない。ちなみに、展示室には休憩できるようにソファーも用意していあるのだが、彼は直立不動で小一時間もそうしている。歳の頃なら四十代後半、白髪の混ざり始めた黒髪は短く刈り揃えられ、服装もカジュアルなジャケットにデニムというごくありふれたものだ。美術

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光あれ

誰もが光のなかにいるという事実を私たちは忘れがちだ。それは、眩いばかりのスポットライトを浴びたり、一家団欒の慎ましい食卓の灯りに包まれるといった些末なことではなく、いついかなる時であっても世界に遍く降り注ぐ光の話だ。仮に盲いて認識できなくなったとしても、彼や彼女の周りには常に光がある。光がなければ、彼や彼女の姿は誰にも見えなくなってしまう。この世界の形あるありとあらゆるものは、光によってその存在が

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椿と山茶花

「椿と山茶花の違いって判る」と、音もなく降る雨の庭を眺めながら、いたずらを仕掛けた子供のように女は笑いを堪えているようだ。

「ここにあるのは椿でしょ」

男は畳の上で体を起こし、座卓の上のもうすっかり冷めてしまったお茶を啜る。

「どうかしらね」

「そんなに似てたっけ、椿と山茶花」

部屋はもう薄暗い。八畳の和室で、床の間の花瓶にもその、椿だと思われる紅い花が灯めいて浮かんでいる。おそらく、庭

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おばあちゃんのズボン

「はとぽっぽ」のおばあちゃんちからおばあちゃんがやって来たのは夏休みの終わる頃だった。少年の親戚は住んでいる町の名前で、つまりは沼津の、熱海の、小田原の、といった具合に呼びならわされていて、だとすればおばあちゃんちは長岡の、ということになるはずなのに、何故「はとぽっぽ」なのかは不明だ。母親の実家で鳩を飼っていたことはないし、特に鳩の多い地域だったわけでもない。その年一家は、正月もお盆も長岡には行か

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遠くの彼氏

仕事を終えてまっすぐ帰宅すると、彼女は簡単な食事を作る。たいていは一品、気が向けば二品、あまり手間のかかる料理はしないが、どれもそれなりに美味しいと自分では思っている。今日は先週末に作って冷凍しておいた餃子をチキンスープに浮かべてネギを散らす。食べ終えるとシャワーを浴び、パジャマ代わりのスゥエットに着替えてパソコンの前に座る。ビデオ通話の出来るアプリケーションを立ち上げて、遠くにいる彼と話しをする

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