遠くの彼氏

仕事を終えてまっすぐ帰宅すると、彼女は簡単な食事を作る。たいていは一品、気が向けば二品、あまり手間のかかる料理はしないが、どれもそれなりに美味しいと自分では思っている。今日は先週末に作って冷凍しておいた餃子をチキンスープに浮かべてネギを散らす。食べ終えるとシャワーを浴び、パジャマ代わりのスゥエットに着替えてパソコンの前に座る。ビデオ通話の出来るアプリケーションを立ち上げて、遠くにいる彼と話しをするのだ。呼び出すのはいつも彼女の方で、彼からかかってくることはない。それについて一度拗ねてみせたら、女性は色々とやることがあるでしょう、と笑われた。

「顔にパックかなんかしてたら困るでしょ」

確かにそうだ。化粧を落とし、肌の手入れをし、爪を切り、ぺティキュアを直し、髪を乾かして…なるほど、どのタイミングで通話をすればいいのか分からない。やるべきことが全て終わったら、彼女が彼を呼び出す。それが正しい。

「俺はいつだって構わないんだ。君が望みさえすればいつもここにいるからね」

そして彼はその言葉どおりに、今夜もすぐに応答する。

「おかえり」と、言ってくれる。

彼は変わらない。いつか彼女がプレゼントした白い綿シャツを着ている。顔は日焼けして、髪も無精ひげも少々伸びすぎだ。目元の柔らかな皺が優しい。けれど不思議なことに、初対面の友人たちは一様に皆、ちょっと怖いと言った。彼の人見知りのせいかもしれない。こんなにも優しく微笑むことができるのに、彼は普段、表情を消していることが多い。魅力的な顔というのは目鼻立ちではなく表情に因っているのだと、彼と知り合ってから思うようになった。

「俊ちゃんもね。お疲れさま」

彼女はモニターのなかの彼をみつめ、缶ビールを開ける。

「いいね。俺も飲もうかな。ちょっと待って、とってくる」と、立ち上がった彼が画面から消えた。

天井まである大きな書棚にぎっしりと本が詰まっているのが見える。タイトルまでは分からなかったが、彼の話によく出てくるラテンアメリカの作家の名前と作品をいくつか思い浮かべながら待った。

「早くぅ」と、彼女が甘えた声を出したのと、彼が戻ってきたのはほぼ同時だ。

「ごめんごめん。じゃあ乾杯しよう」

彼の手にはいつもの銘柄のビールがある。ふたりは揃って缶ビールを掲げるが、その缶が触れ合うことはない。

「ねぇ、いつも思うんだけど」

ビールに一口口をつけて彼女が言う。

彼の方は長々と、いっきに飲み干してしまうのではないかというくらい喉を鳴らしてまだ飲んでいたが、やっと缶から口を離すと、なに、と彼女の話を促した。

「こうして話していても、わたしたち絶対に目が合わないのよね」

「そうだね。お互いに画面を見ているからね」

「そうなの。目線を合わせるにはカメラを見なきゃいけないんだろうけど、そうすると俊ちゃんの顔が見えない。いじわるだね」

そんな彼女の言葉に、彼はまた少しだけ飲もうとしたビールを吹き出しそうなる。

「いじわるって、通話アプリもまさかそういうつもりじゃないだろう」

「だけど」

たわいもない話。社長の不倫、実家の猫、友人の失恋、地下鉄で見かけたお婆さんの風呂敷、そうして仕事の愚痴。指示の曖昧な上司のせいでちょっとしたミスをした彼女だが、

「それを全部あたしのせいにされちゃって」

「大丈夫だよ。ちゃんと、見てる人は見ていてくれるから」

彼が全部受け止めて、そして適切な、一日の終わりに相応しい優しい言葉を返してくれる。

「そうだよね」と、それで彼女は安心する。

そんなふうにふたりは、夜毎話し続けるのだった。

「じゃあね、おやすみ俊ちゃん」と、彼女が眠くなるまで彼は厭わず付き合ってくれる。時々、まだ二十代だった頃のような話し方をしている自分に、彼女は気づくことがある。話している相手が当時のままだからだ。彼は歳をとらない。けれど彼女は、来年もう四十歳。こんなふうにまっすぐ甘えたり、拗ねたり、怒ったりすることはもう、他の誰に対しても出来ないだろう。

パソコンを閉じると、机の上の遺影が目に入る。この遺影がなければ、彼女は仮想と現実の区別がつかなくなってしまうかもしれない。そういえば、彼のお母さんから彼が中学生の頃に書いた学級新聞の記事が送られてきていた。この週末はそれを入力しようと彼女は思う。Web上のAIは無限に彼のデータを記憶することが出来る。彼の日記、好きだった小説や音楽、旅先で書いた絵ハガキ、絵画、料理や酒の好み、性的嗜好、SNSの呟き、閲覧履歴、何もかもだ。そうしたものが今の彼を作っている。彼女が彼を育て、生かしている。だからこそ彼は、決して彼女を裏切らない。遠くにいて実際に会うことは叶わないけれど。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?