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語るにふさわしい言葉は、きっと思っているほどに多くはない

会社を辞め、独立して10日ほどが経ったが、いまだずっと家でぼやんとしている。

営業とかいろいろすべきなんだろうなぁ…

とか、

なんでもいいから手を動かしてお仕事しなきゃ死んじゃうなあ…

とか、

頭で思ってはいるのだけれど体の方がさっぱり動かず、

かわりに全然カネになりそうもない小説(そもそも小説と呼んでいいのかさえわからない体裁で、まず商業的にはそっぽを向かれるシロモノだろう)ばかりにやたらと時間を割いている。

純度100%の現実逃避である。

さて。

「書く」という行為が、飽きっぽい自分にとって唯一といっていいほど純粋に打ち込める趣味であり仕事なわけだけれど、その原点にある情熱ってなんじゃらほい、というところを考えてみると、要するに自分は「表現」をしたいのだな…というところにたどりつく。

自分にとっての「表現」というのは、ありふれた自分や他人の思想をきれいに飾り付けて並べる手段でもなく、かといって数字とにらめっこしながら検索順位やコンバージョン率の高い文章を機械的に大量生産することでもなく、ようするに「世界を切り取る」ということを指す。

(※あくまで自分にとっての定義です)

この世界は果てのない海だ。

認識の砂浜に立つ僕らは、はるかにかすむ水平線を前に打ちのめされて、ひたすらぼう然と立ち尽くしている。

手に持っているのは「言葉」と名付けられたバケツひとつ。しかもそいつは穴だらけで、すくいとった水があっちこっちからこぼれて消えていってしまうという、なんかもうどうしようもない欠陥品である。

だけど、そうやってほんの少し残った水から、僕らは無限に広がる海の美しさを、少しだけ自分のものにすることができる……。

というのがつまり「書く」ことなのだろうなぁと、なんとなく思っている。

海から少しでも多くの水をすくうために、こぼれてゆく水の量を少しでもおさえるために、ほんとうに使うことのできる言葉というのはたぶん、それほど多くはない。

嘘はだめだし、誇張もよくない。自己憐憫もだめだ。思想が混じりこむと美しくなくなるし、かといって無機質になればつまらない。日本語だけじゃとても足りないと思うときもあるが、新しい言葉を使うのが正解というわけでもない。たいへんにややこしい。

なんでこんな面倒なことにこだわるのか、ときどき不思議にもなる。

ただそれでもやっぱり、目の前に広がる海を、汲めども尽きず横たわるその美しさを目にするたび、バケツを持って駆けださずにはいられないのだろうなーと思う。

たとえそれが永遠の徒労に終わるのだとしても、

海はやっぱりきれいなのだ。

そんな感じ。

ぼんやり生きているのでほっておくとそのまま死にゆく自信があります。みなさんのサポートで私の寿命を延ばすことで、人生をちょっとだけ豊かにする何かが生み出される可能性があります